
ようこそ、「読む製菓学校」sweets.noteへ。ここは、レシピだけじゃなく「なぜそうするのか」を一緒に考える場所。第1回は、校長・イシキ校長の「原点」となった、ある事件から始まります。

えっ、校長!最初から「失敗談」でいくんスか!?

ああ。あれは……職人として、少しずつ自信がついてきた頃の話だ。
あの夜のこと
あの日の厨房は、少し蒸し暑かった。 当時、私は「花形」と言われていた焼き場を一人で任されていた。 少しずつ自信もついてきて、心地よいリズムの中で、たくさんの焼き菓子を仕込んでいた。
スポンジケーキを焼き終え、次は予約のパウンドケーキ100台。 慣れた手つきで生地を仕込み、急いでオーブンへ滑り込ませる。 焼き時間は40分。 もう何回も仕込んできた。タイマーなんて見なくても、出すタイミングは体が全部覚えていた。
――でも、40分後。 オーブンの扉を開けた私の目に飛び込んできたのは、見たこともない光景だった。
焼き上がっているはずなのに、驚くほど色が白くて、ちっとも膨らまない。
一瞬、音が消えた。 スタッフの声も、ミキサーの回転音も、すべてが遠い世界の出来事みたいに遠のいていく。 代わりに聞こえてきたのは、耳の奥で激しく打ち鳴らされる、自分の心臓の音だけ。 視界がぐるぐると回り、足元の床がふわふわと消えていく。
「砂糖を、入れ忘れた」
「感覚だけのプロ」の限界

砂糖って……甘くするためだけじゃないんスか? 入れなかっただけで、あんなに変わるもんなんですか?

「だけ」じゃないのよ、カケル。砂糖はお菓子の骨組み。甘さは、その一面にすぎない。
砂糖には、製菓において欠かせない4つの役割があります。
① 焼き色をつける(カラメル化・メイラード反応):砂糖が熱を受けることで、あの美しいきつね色が生まれます。砂糖がなければ、生地はいつまでも白いまま。
② 水分を保持する(保水性):砂糖は水分を抱え込む性質を持っています。これがあることで、ケーキはしっとり仕上がります。砂糖なしでは、硬くパサパサに。
③ 生地を膨らませる(クリーミング効果):バターと砂糖を泡立てる工程で、砂糖の粒がバターに細かい空気を含ませます。この気泡が、ふわっとした食感を生み出します。砂糖がなければ、空気は生まれません。
④ 日持ちをよくする(防腐・抗菌):砂糖は水分活性を下げ、細菌が繁殖しにくい環境を作ります。

理論を知っていれば、生地の状態を見た時点で異変に気づけた。「なんか変だな」で止められた。でもあなたは「感覚」だけで動いていたから、オーブンに入れるまで気づけなかった。

……そうだ。反論できない。
「材料を処分する」ということ
言い訳なんて、1ミリも通用しない。技術のせいじゃない。明らかな、凡ミス。 自分の身を切る残業なんて、いくらでもやる。 でも、どうしても心が悲鳴をあげて拒絶していることがあった。
それは、この「お菓子になれなかった塊」を、100台すべて捨てること。
卵を産んでくれた鶏。牛乳を搾ってくれた酪農家さん。 そのバトンを、私のたった一度の不注意で、ゴミ箱へ放り投げなければならない。 型から外したとき、そのしっとりとした温かさが、たまらなく怖かった。
私の頭の中にあったのは、「100台分の材料費」なんて数字じゃない。 そこに宿るはずだった、ふわふわとした、温かい「ひよこ」たちの命。
卵を一つ割るたびに、私たちはその命のバトンを受け取っている。 本当なら、力強く羽ばたいていくはずだった未来。 それを、私のたった一度の「甘さ(砂糖)」の忘れ物で、消してしまった。
ゴミ袋の中へ、一羽、また一羽と、声なき命を葬っていくような感覚。 「ごめんなさい」 そう呟くたびに、心臓が握りつぶされるような痛みが走った。 あの時、私の視界から色が消え、世界が真っ白に見えたのは、きっと消えゆくひよこたちの影が、私の心に深く焼き付いてしまったから。
本当なら、手早く片付けて次の準備をするのがプロの正解。 でも、私にはできなかった。 どれだけ時間がかかっただろう。 一つひとつ、食材への……そして消えゆく命への「ごめんなさい」を刻みつけるように、ゆっくりと捨てていった。
効率や利益だけを考えるなら、こんな痛みは「無駄」なのかもしれない。 でも、私はこの苦しさを、一生手放したくないと思った。 命の重みを知る者だけが、誰かを幸せにするお菓子を焼くことができる。 あの日の真っ白な100台は、私の中に「絶対に魂を売らない」という、消えない炎を灯してくれたんだ。
だから今、私は学生たちに教えている。 「失敗した時は、材料にごめんなさいをして、自分で捨てなさい」と。 それは、痛みを知らないまま効率だけを求める人には、本当の「美味しい」は作れないと知っているから。
私は、あらゆる失敗を経験してきた。 技術不足も、今回のような凡ミスも、すべて「履修済み」だ。 だから、学生たちが失敗して震えている時、その理由が手に取るようにわかる。
「失敗しないと、本当のお菓子は作れないんだよ」

「失敗は経験である」——それが、このブログの一番根っこにある言葉です。校長の正直さと情熱、受け取りました。
締め
正しいやり方で、正しく作れば、成功するのは当たり前。 でも、失敗を経験し、その痛みを知って初めて、五感は研ぎ澄まされる。 「風味が悪いな」「浮きが悪いな」という気づきは、あの「真っ白な絶望」を通ってきた人にしか分からない宝物なんだ。
人生だって、きっと同じ。 今、生きづらさを感じたり、不幸のどん底にいると思う人がいるかもしれない。 でも、不幸せを経験していない人は、本当の幸せを噛みしめることができない。 戦時中を生き抜いた人が、今の何気ない平和に涙するように。
真っ白に焼き上がったあの日のパウンドケーキは、私に教えてくれた。 「砂糖」という甘みがないと、人生は色づかないし、ふっくらと膨らむこともできないんだって。
もし、今あなたが「自分を甘やかすこと」を忘れて、真っ白な顔で頑張りすぎているなら。 どうか、自分の中に少しだけ「甘み」を足してあげて。
失敗したって、大丈夫。 その痛みを知った分だけ、あなたは次に、もっと優しくて、もっと美味しい人生を焼くことができるから。

フォッフォッフォ。100台の失敗が、100の智慧に変わったわけじゃな。儂が長年厨房で見てきた中で、失敗を糧にできる者だけが、本物の職人になる。……さあ、授業を始めようか。覚悟はよいか?

覚悟はできてます!よろしくお願いしますっ!

読んでくださっている皆さん、ようこそ。一緒に、お菓子の「なぜ」を学んでいきましょう。




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