お菓子の歴史 第二部 ヨーロッパの菓子の物語
カレームと近代フランス菓子
時代:18世紀〜19世紀
はじめに
1789年、フランス革命が起こった。王政は倒れ、貴族たちは国外へ逃れ、あるいは処刑された。ヴェルサイユの豪華な宴会は終わりを告げた。
しかし、お菓子の歴史にとって、革命は終わりではなく、新しい始まりであった。それまで王侯貴族のためだけにあった洗練された料理や菓子が、町のレストランや菓子店を通じて、お金を払えば誰でも楽しめるものへと変わっていったのである。
この時代に、一人の天才が現れた。アントナン・カレームである。貧しい家に生まれ、少年のころから菓子店で働いたカレームは、砂糖で古代の神殿をつくり上げる見事な飾り菓子で名を上げ、やがてナポレオンの外務大臣タレーランや、ロシア皇帝、イギリスの王太子、銀行家ロスチャイルドに仕えた。彼は、それまでの料理と菓子の技術をまとめ上げ、近代のフランス料理と菓子の基礎を築いた。
そして、この時代には、砂糖の歴史にも大きな転機が訪れた。ナポレオンの時代に、サトウキビではなく、寒い国でも育つテンサイ(砂糖大根)から砂糖をつくる方法が広まったのである。
本章では、フランス革命後の菓子店とレストランの広まり、カレームの生涯と仕事、19世紀のパリで生まれた名菓、美食の書き手たち、そしてテンサイ糖の物語をたどる。
1. 革命と菓子
1-1. 宮廷から町へ
フランス革命の前から、パリにはすでに、料理を出す店(レストラン)が生まれていた。「レストラン」という言葉は、もともと「元気を回復させる(レストレ)」スープを意味していた。
革命によって、多くの貴族が国を離れたり、財産を失ったりすると、貴族の屋敷で働いていた料理人や菓子職人の中には、町に出て自分の店を開く者も現れた。「革命で職を失った宮廷の料理人が、町にレストランを開いた」という話は、すべてがそうだったわけではないが、革命がその流れを早めたことは確かである。
1-2. ギルドの廃止
1791年、革命政府は、中世から続いてきた職人のギルド(同業者組合、第3章参照)を廃止した。それまでは、ギルドに属さなければ菓子店やパン屋を開くことはできなかったが、ギルドの廃止によって、誰でも自由に店を開くことができるようになった。
| 革命前 | 革命後 |
|---|---|
| 洗練された料理や菓子は、王侯貴族の屋敷や宮廷のもの | 町のレストランや菓子店で、お金を払えば誰でも楽しめる |
| ギルドに属さなければ店を開けない | 誰でも自由に店を開ける |
| 料理人や菓子職人は、貴族に仕える使用人 | 自分の店をもち、腕で客を集める職人 |
19世紀のパリには、たくさんの菓子店が生まれ、ショーウィンドウに美しい菓子を並べて、通りを行く人々の目を楽しませた。菓子職人たちは、新しい菓子を考え出し、腕を競い合った。
2. アントナン・カレーム
2-1. 少年時代
マリー=アントワーヌ・カレーム(通称アントナン・カレーム)は、1783年か1784年に、パリの貧しい家に生まれた(生まれた年は資料によって違う)。
カレーム自身は、のちに「8歳のとき、父親に捨てられた」と語っている。この話は、カレームの生い立ちの悲劇として広く知られてきた。しかし、最近の研究では、父親がカレームを奉公に出したのであり、その後も父と連絡をとっていたことがわかってきている。
カレームは、料理店で下働きをしたあと、13歳のころ、パリのヴィヴィエンヌ通りにあったシルヴァン・バイイの菓子店に入った。バイイは、カレームの才能を見抜き、彼のつくった飾り菓子を店のショーウィンドウに飾ったという。
2-2. 砂糖の建築 ― ピエス・モンテ
カレームの名を高めたのは、ピエス・モンテとよばれる、大きな飾り菓子であった。
ピエス・モンテは、砂糖や、砂糖と粉を練った細工用の生地、ヌガー、マジパンなどを使って、建物や彫刻のような形をつくり上げる菓子である。中世の宴会の砂糖細工(第3章参照)のように、豪華な飾り菓子は昔からあったが、革命の混乱の中で、その技術はすたれかけていた。
カレームは、パリの国立図書館に通い、古代ギリシャ・ローマの建築や、イタリアの建築家たちの建築書を熱心に研究した。そして、神殿、ピラミッド、噴水、あずまや、古代の遺跡などを、砂糖で精密につくり上げた。
| カレームとピエス・モンテ | 内容 |
|---|---|
| 考案したのか | ピエス・モンテを「考え出した」のではなく、すたれかけていた技術を復活させ、建築の考え方を取り入れて体系化した |
| 手本 | 古代ギリシャ・ローマの建築、イタリアの建築家ヴィニョーラやパラディオの建築書 |
| 作品 | 神殿、ピラミッド、噴水、あずまや、古代の遺跡など |
カレームは、「菓子づくりは建築の一分野である」と考えていたといわれる。その言葉どおり、彼の作品は、食べるための菓子というより、宴会の食卓を飾る芸術作品であった。
2-3. カレームが仕えた人々
カレームの名声は広まり、ヨーロッパの最も力のある人々が、彼を料理人として迎えた。
| 時期 | 仕えた人物 |
|---|---|
| 1803〜1814年 | タレーラン(ナポレオンの外務大臣。外交の宴会で知られた) |
| 1810年代 | ロシア皇帝アレクサンドル1世(ロシアに滞在したのは短い期間だった) |
| 1810年代 | イギリスの摂政王太子(のちの国王ジョージ4世) |
| 1826年から | 銀行家ジェームズ・ド・ロスチャイルド |
タレーランは、「1年間、同じ献立を一度も出さず、季節の食材だけを使って料理をつくれ」という課題をカレームに出し、カレームはそれをやりとげた、という話が伝えられている。ただし、この話は、確かな記録では確かめられていない。
カレームは1833年1月、パリで亡くなった。
2-4. カレームの著作
カレームは、料理人としてだけでなく、書き手としても大きな仕事を残した。自分の知識と技術を、細かな図とともに本にまとめ、後の料理人たちに伝えたのである。
| 年 | 著作 | 内容 |
|---|---|---|
| 1815年 | 『パリの王室製菓人』 | 菓子づくりの技術書 |
| 1815年 | 『絵になる製菓人』 | ピエス・モンテの図案集。神殿や遺跡などの飾り菓子の設計図 |
| 1822年 | 『フランスの給仕長』 | 宴会の献立と給仕 |
| 1828年 | 『パリの料理人』 | 料理の技術書 |
| 1833〜1847年 | 『19世紀フランス料理術』 | 料理の集大成。後半の巻は弟子が書き継いだ |
カレームは、料理や菓子の作り方を、体系的に整理して書き残した。その本は、19世紀のフランスの料理人や菓子職人たちの教科書となり、近代のフランス料理と菓子の基礎となった。
カレームは「料理人の王、王の料理人」とよばれることがある。この言葉は、彼の死後につけられた呼び名と考えられている。
2-5. カレームと菓子
カレームの名前と結びついて語られる菓子もある。
| 菓子 | カレームとのかかわり |
|---|---|
| シャルロット | カレームの本に「パリ風、またはロシア風のシャルロット」のレシピがある。「ロシア皇帝アレクサンドル1世にちなんで名づけた」という話もあるが、本が書かれたのは皇帝に仕える前であり、名前の由来ははっきりしない |
| ヴォル・オ・ヴァン | パイ生地でつくる、中が空洞の器のようなパイ。カレームが考え出した、あるいは完成させたといわれるが、考案者と断定できる資料はない |
3. 19世紀パリの菓子店と名菓
3-1. パリ最古の菓子店ストレール
パリのモントルグイユ通りには、今も営業を続ける、パリで最も古い菓子店がある。ストレールである。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1725年 | 菓子職人ニコラ・ストレールが、ポーランド王スタニスワフの娘マリー・レクザンスカが、フランス王ルイ15世と結婚したのにともなって、ヴェルサイユにやってくる |
| 1730年 | ストレールが、パリのモントルグイユ通りに菓子店を開く |
ストレールの店の美しい内装は、フランスの歴史的建造物に指定されている。
3-2. ババの伝説
ストレールの店は、ババ(ラム酒などのシロップをたっぷりしみこませた発酵菓子)の元祖としても知られている。
ポーランド王スタニスワフは、乾いてかたくなったクグロフを、酒にひたして食べた。それをストレールが改良して、ババが生まれた。
この話はよく知られているが、伝説と考えられている。ラム酒をしみこませたババが、モントルグイユ通りで生まれたのは1835年ごろ、あるいはそれ以前とされる。「アリ・ババ」の物語から名前がついたという話も、伝説である。
3-3. サヴァランとジュリアン兄弟
サヴァランは、リング形の型で焼いた発酵生地に、シロップをしみこませ、中央にクリームや果物を飾った菓子である。
1844年、ジュリアン家の三兄弟が、パリの証券取引所の前に菓子店を開いた。サヴァランは、この兄弟の店で、1844年か1845年に考え出されたとされる。名前は、美食家ブリア=サヴァラン(4-2参照)にちなんでいる。
「ブリア=サヴァランが、ジュリアン兄弟にシロップのレシピを教えた」という話もあるが、ブリア=サヴァランは1826年に亡くなっており、年代が合わない。
3-4. サントノーレ
サントノーレは、パイ生地の台の上に、カラメルをつけた小さなシューを王冠のように並べ、中にクリームをしぼった菓子である。
19世紀の半ば(1840年代)、パリのサン=トノレ通りにあった菓子職人シブーストの店で生まれたとされる。名前は、店のあったサン=トノレ通りから、という説が有力である。パン職人と菓子職人の守護聖人「聖オノレ」(サン・トノレ)から、という説もある。
サントノーレに使われる、カスタードクリームにメレンゲを合わせた軽いクリームは、今も「クレーム・シブースト」とよばれている。
3-5. 菓子職人の専門化
19世紀のフランスでは、菓子の仕事がさらに専門に分かれていった。
| 分野 | 内容 |
|---|---|
| パティスリー | 生地を使った菓子(ケーキ、タルト、焼き菓子、生菓子) |
| コンフィズリー | 砂糖菓子(キャンディ、ボンボン、果物の砂糖漬け、ドラジェなど) |
| グラスリー | 氷菓(アイスクリーム、シャーベット) |
| ショコラトリー | チョコレート菓子 |
この分け方は、今のフランスの菓子の世界にも受け継がれている。
4. 美食の書き手たち
4-1. グリモ・ド・ラ・レニエール
グリモ・ド・ラ・レニエール(1758〜1837年)は、パリの裕福な家に生まれた美食家である。1803年から1812年にかけて、全8巻の『美食家年鑑』を出版した。パリの食料品店や菓子店、レストランを紹介し、評価するこの本は、今のグルメガイドの先がけといわれる。
4-2. ブリア=サヴァラン
ブリア=サヴァラン(1755〜1826年)は、法律家で、美食家として知られる。1825年に匿名で出版した『美味礼讃』(原題は『味覚の生理学』)は、食べることの喜びと科学を論じた本として、今も読みつがれている。
どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人間であるかを言い当ててみせよう。
この有名な言葉は、『美味礼讃』の中のものである。菓子のサヴァランや、チーズの「ブリア・サヴァラン」には、彼の名前がつけられている。
5. テンサイ糖の誕生
5-1. 寒い国でも砂糖がつくれる
第4章で学んだように、砂糖はサトウキビからつくられ、カリブ海などの暑い地域から、ヨーロッパに運ばれていた。ところが18世紀に、ヨーロッパの寒い土地でも育つ植物から砂糖をつくる方法が見つかった。テンサイ(砂糖大根、ビート)である。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1747年 | ドイツの化学者マルクグラーフが、ビートから砂糖を取り出し、サトウキビの砂糖と同じものであることを示す。ただし、糖分は少なく、商売にはならなかった |
| 1786年〜 | 弟子のアシャールが、糖分の多いビートの品種改良を始める |
| 1801年 | アシャールが、プロイセン領のシレジア(今のポーランド)に、世界で最初のテンサイ糖の工場を開く |
5-2. ナポレオンとテンサイ糖
テンサイ糖が大きく広まるきっかけをつくったのは、フランスの皇帝ナポレオンであった。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1806年 | ナポレオンが大陸封鎖令を出し、ヨーロッパ大陸の国々にイギリスとの貿易を禁じる。イギリスも海上を封鎖し、カリブ海からの砂糖がヨーロッパ大陸に届きにくくなる |
| 1811年 | ナポレオンが、テンサイの栽培と製糖を奨励する命令を出す。広い畑にテンサイが植えられ、研究に資金が出される |
| 1812年 | ナポレオンが、パリ郊外にあるドゥレセールのテンサイ糖工場を訪れる |
ナポレオンが工場を訪れたとき、喜んで自分の勲章を外し、ドゥレセールの胸につけた、という話が伝えられている。ただし、この話の出典ははっきりしない。
その後、テンサイ糖の生産は、ヨーロッパの各地で広がった。世界の砂糖に占めるテンサイ糖の割合は、1840年には約5%だったが、1880年には50%を超えた。砂糖はさらに安くなり、ヨーロッパの人々にとって身近なものとなった。
テンサイ糖の広まりは、ヨーロッパの国々が、熱帯の植民地のサトウキビ(第4章参照)に頼らずに砂糖を手に入れる道を開いた。日本でも、寒い北海道で、テンサイから砂糖がつくられている。
6. 近代フランス菓子の年表
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1725年 | ストレールがヴェルサイユへ |
| 1730年 | ストレールがパリに菓子店を開く |
| 1747年 | マルクグラーフがビートから砂糖を取り出す |
| 1783〜1784年 | カレーム誕生 |
| 1789年 | フランス革命 |
| 1791年 | ギルドの廃止 |
| 1801年 | アシャールが世界最初のテンサイ糖工場を開く |
| 1803〜1812年 | グリモ『美食家年鑑』 |
| 1806年 | ナポレオンの大陸封鎖令 |
| 1815年 | カレーム『パリの王室製菓人』『絵になる製菓人』 |
| 1825年 | ブリア=サヴァラン『美味礼讃』 |
| 1833年 | カレーム死去 |
| 1835年ごろ | ラム酒のババ |
| 1840年代 | サントノーレ、サヴァラン |
| 1880年 | テンサイ糖が世界の砂糖の50%を超える |
伝説と史実
よく語られるお話と、確かな記録からわかることを比べてみましょう。カードをタップすると、史実がめくれます。
🔮 よく語られる話「カレームがピエス・モンテを考案した」
🔮 よく語られる話「カレームは8歳のとき、父親に捨てられた」
🔮 よく語られる話「シャルロットは、カレームがロシア皇帝アレクサンドル1世にちなんで名づけた」
🔮 よく語られる話「ババは、ポーランド王スタニスワフが乾いたクグロフを酒にひたしたのが始まり」
🔮 よく語られる話「ブリア=サヴァランが、サヴァランのシロップのレシピを教えた」
🔮 よく語られる話「ナポレオンがテンサイ糖を発明した」
製菓とのつながり
工芸菓子と製菓の技術
カレームのピエス・モンテは、今の工芸菓子(シュガークラフト、チョコレートの細工、あめ細工)や、ウェディングケーキのような大型のデコレーションケーキにつながっている。日本でも、洋菓子のコンテストなどで工芸菓子の技術が競われている。設計図を描き、部品をつくり、組み立てるという工程は、カレームの時代から変わらない。
古典菓子の生地とクリーム
サントノーレには、パイ生地、シュー生地、カラメル、カスタードクリーム、メレンゲと、フランス菓子の基本の技術が詰まっている。サヴァランやババには、発酵生地とシロップの技術が使われている。19世紀のパリで生まれた古典菓子は、今も製菓学校の実習で、基本の技術を身につけるための課題として作られている。
テンサイ糖とグラニュー糖
日本で使われている砂糖のうち、国内でつくられる砂糖の多くは、北海道のテンサイからつくられている。テンサイ糖とサトウキビの砂糖は、精製すれば同じショ糖であり、グラニュー糖や上白糖として使われる。精製度の低いテンサイ糖には、オリゴ糖などがふくまれ、やさしい甘さや風味がある。原料の違いを知ると、砂糖の選び方の幅が広がる。
まとめ
フランス革命(1789年)のあと、洗練された料理や菓子は、宮廷から町のレストランや菓子店へと広がった。1791年にはギルドが廃止され、誰でも自由に店を開けるようになった。
アントナン・カレーム(1783年または1784年〜1833年)は、13歳でバイイの菓子店に入り、古代建築を研究して、砂糖の神殿や遺跡などのピエス・モンテを復活・体系化した。タレーラン、ロシア皇帝、イギリスの王太子、ロスチャイルドに仕え、『パリの王室製菓人』(1815年)などの著作で、近代のフランス料理と菓子の基礎を築いた。「捨てられた少年」の話や「料理人の王」の呼び名には、伝説や後世の脚色もふくまれる。
パリ最古の菓子店ストレール(1730年)はババの元祖とされ(スタニスワフ王の話は伝説)、ジュリアン兄弟の店ではサヴァラン(1844〜1845年ごろ)が、シブーストの店ではサントノーレ(1840年代)が生まれた。菓子の仕事は、パティスリー、コンフィズリー、グラスリーなどに専門化した。グリモの『美食家年鑑』(1803〜1812年)、ブリア=サヴァランの『美味礼讃』(1825年)は、美食文学の古典である。
テンサイ糖は、マルクグラーフ(1747年)が発見し、アシャール(1801年)が最初の工場を開き、ナポレオンの大陸封鎖(1806年)をきっかけに広まって、1880年には世界の砂糖の半分を超えた。
次章では、19世紀の産業革命の中で、チョコレートが「飲み物」から「食べるお菓子」へと生まれ変わった物語を訪ねる。
※ 本ページは『sweets note. 図書館』のお菓子の歴史 第7章です。製菓衛生師養成課程の科目「社会」のうち、菓子の歴史と文化にあたる内容を扱っています。

