お菓子の歴史 第二部 ヨーロッパの菓子の物語
ハプスブルク家とウィーン菓子
時代:13世紀〜20世紀
はじめに
ドナウ川のほとりの都、ウィーン。かつてこの町は、ヨーロッパの広い地域を治めたハプスブルク家の都であった。王宮には、料理の厨房とは別に、お菓子だけをつくる部門があり、宮廷御用達の菓子店が腕を競った。町には何百ものカフェがあり、人々は一杯のコーヒーとケーキで何時間も語り合った。
ザッハートルテ、アプフェルシュトゥルーデル、クグロフ、リンツァートルテ。ウィーンとその周りの国々は、フランスと並ぶ、ヨーロッパのもう一つの「菓子の都」である。フランスのパン屋に並ぶクロワッサンやブリオッシュなどの「ヴィエノワズリー」という言葉も、「ウィーン風のもの」という意味である。
そして、ハプスブルク家からフランスへ嫁いだ王女が、マリー・アントワネットである。「パンがなければお菓子を食べればいいのに」という言葉や、「クロワッサンをフランスに伝えた」という話で知られるが、その本当の姿はどうだったのだろうか。
本章では、ハプスブルク家の宮廷と、ウィーンの菓子店やカフェの物語、ドイツ語圏の菓子、そしてマリー・アントワネットとクロワッサンをめぐる伝説と史実をたどる。お菓子の歴史の中でも、とりわけ伝説の多い章である。
1. ハプスブルク家とウィーン
1-1. ヨーロッパの名門
ハプスブルク家は、13世紀の終わりからオーストリアを治め、やがて神聖ローマ皇帝の位を受け継ぎ、スペインやネーデルラント(今のオランダやベルギー)、ハンガリー、ボヘミア(今のチェコ)など、ヨーロッパの広い地域を支配した名門の王家である。その支配は、第一次世界大戦が終わる1918年まで、約600年以上にわたって続いた。
| 人物 | 生没年 | お菓子の歴史とのかかわり |
|---|---|---|
| マリア・テレジア | 1717〜1780年 | オーストリアの女帝。16人の子をもうけ、娘の一人がマリー・アントワネット |
| マリー・アントワネット | 1755〜1793年 | ウィーン生まれ。1770年、フランス王太子(のちのルイ16世)と結婚。フランス革命で処刑された |
| フランツ・ヨーゼフ1世 | 1830〜1916年 | オーストリア皇帝。1874年、菓子店デメルに宮廷御用達の称号を与えた |
| エリーザベト(シシィ) | 1837〜1898年 | フランツ・ヨーゼフ1世の皇后。美しさで知られた |
1-2. 宮廷の菓子部門
ウィーンの王宮には、料理をつくる宮廷厨房とは別に、お菓子をつくる宮廷菓子部門(ホーフツッカーベッカライ)が置かれていた。宮廷厨房は、毎日およそ2,000人分の食事をまかない、1814〜1815年のウィーン会議の時期には、約3,000人分にまで増えたという。
宮廷で働く菓子職人は「ツッカーベッカー」(砂糖のパン職人)とよばれた。宮廷では、ケーキや焼き菓子、砂糖細工、果物の砂糖漬けなど、さまざまな菓子がつくられた。宮廷の菓子の技術は、やがて町の菓子店にも受け継がれ、ウィーンの菓子文化を育てていった。
2. デメルとザッハートルテ
2-1. 宮廷御用達の菓子店デメル
ウィーンを代表する菓子店の一つがデメルである。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1786年 | ドイツ南西部出身の菓子職人ルートヴィヒ・デーネが、王宮の前のミヒャエラー広場に菓子店を開く |
| 1857年 | 店で働いていた職人クリストフ・デメルが、店を買い取る |
| 1874年 | 皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から、宮廷御用達の称号を受ける |
| 1888年 | 王宮近くのコールマルクト通りに移る(現在の店) |
デメルは、創業のときから宮廷御用達だったわけではない。宮廷御用達の称号を受けたのは、創業から約90年後の1874年であった。デメルの店は、今もコールマルクト通りで営業を続け、宮廷時代の面影を残している。
2-2. ザッハートルテの誕生
ザッハートルテは、チョコレート味のスポンジ生地に杏(あんず)のジャムをぬり、全体をチョコレートのグラス(糖衣)でおおったケーキである。ウィーンを代表するお菓子として、世界中に知られている。
その誕生については、次のような話が広く語られている。
1832年、オーストリアの宰相メッテルニヒが、客をもてなすための特別なデザートを命じた。ところが、料理長が病気で寝こんでいたため、16歳の見習いフランツ・ザッハーが代わりにつくったのが、ザッハートルテの始まりである。
この話は広く信じられているが、その時代の記録で確かめることはできていない。また、チョコレートのトルテのレシピは、18世紀の料理書にもすでに見られる。
記録で確かめられる、その後の歴史は次のとおりである。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1858年 | 「ザッハー風チョコレートトルテ」のレシピが料理書に発表される |
| 1876年 | フランツ・ザッハーの息子エドゥアルトが、ウィーンにホテル・ザッハーを開く |
| 1934年 | ホテル・ザッハーが経営に行きづまる。エドゥアルトの息子(エドゥアルト2世)が、デメルにレシピを持ちこむ |
| 1938年 | ホテル・ザッハーの新しい経営者が、「オリジナル・ザッハートルテ」の名前を商標として登録する |
2-3. 「トルテ戦争」
こうして、ホテル・ザッハーとデメルの両方が「ザッハートルテ」を売るようになった。どちらが本物か。1954年、ホテル・ザッハーはデメルを相手に裁判を起こした。
裁判で争われたのは、名前だけではなかった。
| 争点 | ホテル・ザッハー | デメル(当時) |
|---|---|---|
| 杏のジャムの層 | スポンジの中にもジャムをはさむ(2層) | 表面の下にだけぬる(1層) |
| 使う油脂 | バターかマーガリンかも争点になった |
ウィーンの人々を巻きこんだこの争いは、「甘い7年戦争」「トルテ戦争」ともよばれる。結局、1963年、裁判の外での和解によって決着した(判決で決まったとする資料もある)。
| 和解の内容 | |
|---|---|
| ホテル・ザッハー | 「オリジナル・ザッハートルテ」の名前を使う |
| デメル | 「エドゥアルト・ザッハー・トルテ」(現在は「デメルのザッハートルテ」)の名前を使う |
今でも、ウィーンを訪れる人の中には、二つの店のザッハートルテを食べ比べる人が多い。なお、デメルのザッハートルテも、2020年の終わりから、スポンジの中にも杏のジャムをはさむようになった。
3. ウィーンの菓子いろいろ
3-1. シュトゥルーデル
シュトゥルーデルは、紙のように薄くのばした生地で、具を巻いて焼いた菓子である。代表的なのが、りんごを巻いたアプフェルシュトゥルーデルである。生地は、向こう側の新聞の文字が読めるほど薄くのばすのがよいとされる。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1696年 | 手書きの料理書に、牛乳クリームを入れたシュトゥルーデルのレシピ。現存するもっとも古いシュトゥルーデルのレシピとされる |
| 1827年 | 料理書に、薄くのばした生地で巻くアプフェルシュトゥルーデルのレシピが載る |
薄い生地の技術は、オスマン帝国(トルコ)の、薄い生地を重ねる菓子(バクラヴァなど)が、ハンガリーを通じて伝わったという説もある。女帝マリア・テレジアがシュトゥルーデルを宮廷や上流の人々に広めたという話もあるが、確かな記録はない。
3-2. カイザーシュマーレン
カイザーシュマーレンは、厚めのパンケーキを焼きながらちぎり、粉砂糖をふって、果物のコンポートを添えた料理菓子である。「カイザー」はドイツ語で「皇帝」の意味である。
その名前の由来については、皇帝フランツ・ヨーゼフや皇后エリーザベトにまつわる話がいくつも伝えられている。
料理人が皇帝のためのパンケーキを崩してしまった。皇帝は「こんなシュマーレン(くだらないもの)は、皇帝にふさわしくない」と言いながら、結局おいしく食べた。
しかし、こうした話は、内容がそれぞれ食い違っており、伝説と考えられる。アルプスの牧人を意味する「カーザー」という言葉が変化したという説が有力である。
3-3. ハンガリーとの交流
ハプスブルク家は、1867年からはオーストリア=ハンガリー帝国として、ハンガリーとともに一つの国をつくった。ウィーンとハンガリーのブダペストの間では、菓子の文化も行き来した。ハンガリーの菓子職人ドボシュ・ヨージェフが1885年に考えた、カラメルをのせた層のケーキ「ドボシュトルタ」なども、この地域を代表する菓子である。
4. ウィーンのカフェ文化
4-1. コルシツキーの伝説
ウィーンのカフェの始まりについては、とても有名な話がある。
1683年、オスマン帝国(トルコ)の大軍がウィーンを包囲した。ポーランド出身のコルシツキーは、トルコ兵に変装して敵の陣地を抜け、援軍との連絡役を果たした。トルコ軍が退却したあと、彼はほうびとして、トルコ軍が残していったコーヒー豆の袋をもらい、ウィーン最初のカフェ「青い瓶」を開いた。
コルシツキーが、1683年の包囲戦で連絡役として活躍したことは史実である。しかし、「残されたコーヒー豆で最初のカフェを開いた」という部分は、1783年、つまり100年後に書かれた物語がもとになっている。歴史家カール・テプリが、1980年にこのことを明らかにした。
4-2. 本当の最初のカフェ
記録で確かめられるウィーン最初のカフェは、1685年に、アルメニア人のヨハネス・ディオダートが開いた店である。コルシツキーは、翌年、コーヒーの営業の特別な許可を受けた人々の一人であった。
4-3. カフェは「ウィーンの居間」
その後、ウィーンには数多くのカフェが生まれた。人々はカフェで新聞を読み、議論をし、手紙を書き、何時間も過ごした。19世紀から20世紀の初めには、作家や芸術家、学者たちが集まるカフェもあった。ウィーンのカフェは、町の人々の「居間」のような場所であった。
ウィーンのカフェでは、コーヒーとともに、トルテやシュトゥルーデルなどの菓子が楽しまれた。「ウィーンのカフェ文化」は、オーストリアの無形文化遺産にも登録されている。
4-4. ウィーン会議
1814〜1815年、ナポレオン戦争のあとのヨーロッパの秩序を話し合うため、各国の代表がウィーンに集まった。これがウィーン会議である。会議の間、舞踏会や演奏会、狩りなどが毎日のように開かれた。「会議は踊る、されど進まず」という言葉は、このときの様子を表したものとして知られている。
ウィーン会議の時期には、宮廷の厨房が毎日約3,000人分の食事をまかなった。ただし、「この会議で特定の菓子が生まれた」という確かな記録は見つかっていない。また、フランスの名料理人カレーム(第7章参照)がウィーン会議で腕をふるったという話もあるが、カレームは当時パリにいたと考えられている。
5. マリー・アントワネットの真実
5-1. 「パンがなければお菓子を」
「パンがないなら、お菓子を食べればいいのに」。フランス革命の前、パンが買えずに苦しむ民衆について、王妃マリー・アントワネットがこう言ったという話は、世界中で知られている。しかし、これは彼女の言葉ではない。
| 確かめられること | 内容 |
|---|---|
| 言葉の出典 | フランスの思想家ルソーの自伝『告白』第6巻に、「(パンがないなら)ブリオッシュを食べればいい」と言った、名前のない「ある大公妃」の話が出てくる |
| 書かれた年 | この部分は1765年ごろに書かれた。マリー・アントワネットは当時9歳で、まだウィーンにいた |
| フランスに来た年 | マリー・アントワネットがフランスに嫁いだのは1770年(14歳) |
| 彼女の言葉とされた時期 | この言葉が彼女のものとして書かれたのは、1843年、彼女の死から約50年後とされる |
なお、もとの言葉の「お菓子」は、フランス語で「ブリオッシュ」である。バターと卵をたっぷり使った、ぜいたくなパンを指している。伝記作家アントニア・フレイザーは、この話は、さらに約100年前の別の王女の言葉として語られていた古い話だと指摘している。
5-2. 本当のマリー・アントワネット
マリー・アントワネットは、ぜいたくな王妃として民衆の怒りを集め、1793年、フランス革命の中で処刑された。しかし、彼女に仕えた侍女の回想によれば、王妃自身は少食で、朝はショコラ(飲むチョコレート)とパン類をとり、日中も控えめな食事であったという。
「パンがなければお菓子を」の言葉は、革命の時代に王妃への反感が高まる中で、彼女に結びつけられていった伝説なのである。
5-3. クロワッサンを伝えたのは誰か
「マリー・アントワネットが、ウィーンからフランスにクロワッサンを伝えた」という話も有名である。しかし、これを裏付ける証拠はない。
| 確かめられること | 内容 |
|---|---|
| 三日月形のパン | ウィーンには、三日月形のパン「キプフェル」が、遅くとも13世紀からあった(1227年の詩に登場) |
| パリへ伝えた人 | 1838〜1839年、オーストリアの元砲兵将校オーギュスト・ザングが、パリのリシュリュー通りに「ブランジュリー・ヴィエノワーズ」(ウィーン風パン屋)を開いた。キプフェルなどのウィーンのパンが評判になり、パリでまねされるようになった |
| ザングのその後 | ウィーンに戻り、1848年に新聞『ディ・プレッセ』を創刊した |
| 「クロワッサン」の名前 | フランス語の「クロワッサン」(三日月)という言葉が、パンの名前として記録に出てくるのは1853年 |
| 今のような層の生地 | バターを折りこんだ、層のあるクロワッサンが生まれたのは20世紀。現代のクロワッサンのもっとも古いレシピは1905年 |
19世紀のクロワッサンは、ブリオッシュのような生地のパンであった。パイ生地のようにバターを折りこんだ、さくさくと層になったクロワッサンは、20世紀にフランスで完成したものである。
5-4. 「トルコの三日月」の伝説
クロワッサンの起源について、もう一つ有名な話がある。
1683年、トルコ軍がウィーンを包囲したとき、夜中に働いていたパン職人が、トルコ軍が地下にトンネルを掘る音に気づき、町を救った。そのほうびとして、トルコの旗の三日月をかたどったパンを焼いたのが、クロワッサンの始まりである。
これも伝説である。三日月形のキプフェルは、1683年より何百年も前からあった。この話は、20世紀の前半(1938年と1948年)に、料理事典の中で紹介されて広まったものとされる。
5-5. ヴィエノワズリー
フランスのパン屋では、クロワッサン、パン・オ・ショコラ、ブリオッシュなど、バターや卵、砂糖を多く使ったパンを「ヴィエノワズリー」(ウィーン風のもの)とよぶ。この言葉は、ザングの「ウィーン風パン屋」がパリで評判になったことに由来し、20世紀になって広く使われるようになった。
マリー・アントワネットではなく、19世紀のパン屋ザングこそが、ウィーンのパンをパリに伝えた人物だったのである。
6. クグロフ
クグロフは、斜めにうねった模様のある、王冠のような形の型で焼いた、発酵生地の菓子である。干しぶどうやアーモンドが入っている。ウィーンでは「グーゲルフプフ」、フランスのアルザス地方では「クグロフ」とよばれる。
| 話 | 判定 |
|---|---|
| 18世紀のクグロフの型が今も残っている | 史実 |
| 東方の三博士が、お礼にターバンの形の型を残していった | 伝説 |
| マリー・アントワネットが、フランスの宮廷で流行させた | はっきりした証拠はない |
クグロフはマリー・アントワネットの好物として紹介されることが多いが、確かな記録は見つかっていない。アルザス地方では、古くから日曜日の朝や祝いの日に焼かれる、家庭の菓子として親しまれてきた。
7. ドイツ語圏の伝統菓子
7-1. シュトーレン
シュトーレンは、ドイツのクリスマスの菓子である。バターをたっぷり使った発酵生地に、干しぶどうや柑橘の皮の砂糖漬け、ナッツを練りこんで焼き、粉砂糖で真っ白におおう。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1474年 | ドレスデンの病院の会計帳に記録がある。当時は小麦粉、酵母、水だけの、断食期の質素なパンであった |
| 1490年・1491年 | ローマ教皇の手紙(いわゆる「バター勅書」)で、クリスマス前の断食期にバターを使うことが許される。初めは君主の兄弟に(食卓は6人まで、という条件つき)、翌年にはドレスデンのパン職人にも認められた |
| 1730年 | ザクセンの君主アウグスト強王が、約1.8トンの巨大なシュトーレンを焼かせる |
| 2010年 | 「ドレスデン・シュトーレン」が、EUの地理的表示(その土地ならではの産品として保護される制度)に登録される |
断食期の質素なパンが、教皇の許しを得て、バターたっぷりのぜいたくな菓子に生まれ変わったのである。
7-2. リンツァートルテ
リンツァートルテは、オーストリアの町リンツの名前がついた、ナッツの生地に赤いジャム(すぐりやラズベリー)をぬり、格子模様に生地をのせて焼いた菓子である。
2005年、オーストリアのアドモント修道院の図書館で、1653年に書かれた手書きの料理書が見つかり、そこにリンツの名前がついたトルテのレシピが4つ載っていた。これが、リンツァートルテのもっとも古いレシピとされる。「19世紀に菓子職人が発明した」という話は、伝説であった。
7-3. バウムクーヘン
バウムクーヘンは、心棒に生地を少しずつかけながら回して焼き、切り口に木の年輪のような層をつくる菓子である。「バウム」は「木」、「クーヘン」は「菓子」の意味である。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 15世紀 | イタリアやドイツの料理書に、串に生地を巻きつけて焼く菓子のレシピがある |
| 1682年 | 「バウムクーヘン」という名前が初めて記録に出てくる |
| 1758年 | 今のレシピに近いバウムクーヘンが料理書に載る |
ドイツでは、バウムクーヘンを名乗るための材料の決まり(小麦粉:バター:卵の割合)がある。日本にバウムクーヘンを伝えたのは、ドイツの菓子職人カール・ユーハイムである(第14章参照)。
8. ハプスブルク家と菓子の年表
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1227年 | 三日月形のパン(キプフェル)が詩に登場 |
| 1474年 | ドレスデンでシュトーレンの記録 |
| 1490〜1491年 | バター勅書 |
| 1653年 | リンツァートルテの最古のレシピ |
| 1683年 | オスマン帝国のウィーン包囲 |
| 1685年 | アルメニア人ディオダートがウィーン最初のカフェを開く |
| 1696年 | 最古のシュトゥルーデルのレシピ |
| 1765年ごろ | ルソーが「ブリオッシュを食べればいい」の話を書く |
| 1770年 | マリー・アントワネットがフランスへ嫁ぐ |
| 1786年 | デーネ(のちのデメル)創業 |
| 1814〜1815年 | ウィーン会議 |
| 1832年 | ザッハートルテ誕生の伝承 |
| 1838〜1839年 | ザングがパリに「ウィーン風パン屋」を開く |
| 1874年 | デメルが宮廷御用達に |
| 1876年 | ホテル・ザッハー開業 |
| 1954〜1963年 | ザッハートルテをめぐる「トルテ戦争」 |
伝説と史実
よく語られるお話と、確かな記録からわかることを比べてみましょう。カードをタップすると、史実がめくれます。
🔮 よく語られる話「マリー・アントワネットは『パンがなければお菓子を食べればいい』と言った」
🔮 よく語られる話「マリー・アントワネットがクロワッサンをフランスに伝えた」
🔮 よく語られる話「クロワッサンは、1683年のウィーン包囲のとき、トルコの旗の三日月をかたどって生まれた」
🔮 よく語られる話「クロワッサンは、昔からバターを折りこんだ層のあるパンだった」
🔮 よく語られる話「コルシツキーが、トルコ軍の残したコーヒー豆でウィーン最初のカフェを開いた」
🔮 よく語られる話「ザッハートルテの裁判は、判決でホテル・ザッハーが勝った」
🔮 よく語られる話「デメルは、創業のときから宮廷御用達だった」
🔮 よく語られる話「リンツァートルテは、19世紀に菓子職人が発明した」
製菓とのつながり
パンとお菓子の境目
クロワッサン、ブリオッシュ、クグロフ、シュトーレン。この章に登場した多くの菓子は、発酵生地からつくられる。パンと菓子の境目にある「ヴィエノワズリー」は、製パンと製菓の両方の技術が必要な分野である。クロワッサンのように、発酵生地にバターを折りこむ技術は、パイ生地(第5章参照)と発酵の技術が合わさったものである。
層をつくる技術
シュトゥルーデルの薄い生地、バウムクーヘンの年輪、クロワッサンの層、ザッハートルテのジャムの層。ウィーンとドイツ語圏の菓子は、「層」を楽しむ菓子が多い。生地を薄くのばすには、グルテンをよく発達させ、生地を休ませることが大切である。層の数や厚さで食感が変わることは、トルテ戦争が証明している。
杏ジャムの役割
ザッハートルテの杏のジャムは、甘酸っぱさでチョコレートの濃さを引き立てるとともに、スポンジとチョコレートの糖衣の間で、生地の乾燥を防ぐ役目もしている。表面をおおうチョコレートのグラスは、砂糖とチョコレートを煮つめてつくる。古典菓子の一つ一つの工程には、味と保存の両方の理由がある。
まとめ
ハプスブルク家は、13世紀の終わりから1918年までオーストリアを中心に広い地域を治めた。ウィーンの王宮には、厨房とは別に宮廷菓子部門があった。菓子店デメルは1786年に創業し、1874年に宮廷御用達となった。ザッハートルテは、1832年に16歳のフランツ・ザッハーがつくったと伝えられ、ホテル・ザッハーとデメルの間で、杏ジャムの層の数まで争われた「トルテ戦争」の末、1963年に和解した。
シュトゥルーデル(最古のレシピ1696年)、カイザーシュマーレン(皇帝の話は伝説)などの菓子も生まれた。ウィーン最初のカフェは、1685年、アルメニア人ディオダートの店で、コルシツキーの「青い瓶」は100年後の創作であった。
マリー・アントワネット(1770年フランスへ)の「パンがなければお菓子を」は、ルソーが1765年ごろに書いた名前のない「大公妃」の言葉で、彼女のものとされたのは1843年である。クロワッサンを伝えたのも彼女ではなく、1838〜1839年にパリに「ウィーン風パン屋」を開いたオーギュスト・ザングである。三日月形のキプフェルは13世紀からあり、層のあるクロワッサンは20世紀に生まれた。「トルコの三日月」の話も伝説である。
ドイツ語圏では、シュトーレン(1474年の記録、1490〜1491年のバター勅書)、リンツァートルテ(1653年の最古のレシピ)、バウムクーヘン(名前の初出1682年)などが受け継がれてきた。
次章では、フランス革命のあと、菓子が宮廷から町へと広がり、「料理人の王」アントナン・カレームが近代のフランス菓子を築いた時代を訪ねる。
※ 本ページは『sweets note. 図書館』のお菓子の歴史 第6章です。製菓衛生師養成課程の科目「社会」のうち、菓子の歴史と文化にあたる内容を扱っています。

