お菓子の歴史 第3章:中世ヨーロッパの菓子

第3章

お菓子の歴史 第一部 甘さとパンのはじまり

中世ヨーロッパの菓子

時代:5世紀〜15世紀

はじめに

5世紀に西ローマ帝国がほろびてから、15世紀のルネサンスまでのおよそ1000年間を、ヨーロッパの中世という。かつては「暗黒の時代」とよばれることもあったが、お菓子の歴史から見ると、中世は、のちのヨーロッパ菓子の土台がつくられた大切な時代であった。

中世の菓子づくりを支えたのは、二つの場所である。一つはキリスト教の修道院。修道士たちは、ミサに使う薄いパンを焼き、蜂蜜や香辛料を使った菓子をつくり、薬草酒を蒸留した。もう一つは都市の職人たちである。パン職人や菓子職人は、仲間どうしでギルド(同業者の組合)をつくり、腕を磨き合い、厳しい決まりのもとで菓子を焼いた。

さらに、第1章で学んだように、十字軍などをきっかけに、中東から砂糖、アーモンド、香辛料が入ってきた。キリスト教の暦にそった断食と祭りも、菓子の形や食べ方に大きな影響を与えた。

本章では、聖餅から生まれたウーブリ(ワッフルの祖先)、パン職人と菓子職人のギルド、プレッツェルやレープクーヘン、マジパン、薬屋の砂糖菓子など、中世ヨーロッパの菓子の世界を訪ねる。

1. 修道院と菓子

1-1. 修道院は知識と技術の宝庫

中世のヨーロッパでは、修道院は、祈りの場であると同時に、学問、農業、医学、そして食の技術の中心でもあった。修道士たちは、古代ギリシャ・ローマの書物を書き写して保存し、畑やぶどう畑、ミツバチを育て、薬草を栽培した。

修道院では、次のようなものがつくられた。

つくられたもの内容
聖餅(せいべい)キリスト教のミサで使う、小麦粉と水でつくる薄い円形のパン
蜂蜜と蜜蝋修道院でミツバチを飼い、蜂蜜を甘味に、蜜蝋をろうそくに使った
香辛料を使った菓子蜂蜜と香辛料を合わせた焼き菓子(レープクーヘンなど)
薬草酒(リキュール)薬草を酒にひたしたり蒸留したりしてつくる薬用の酒
ワイン・ビールミサのためのワインや、毎日の飲み物としてのビール

1-2. 聖餅から生まれた菓子

キリスト教のミサでは、パンとぶどう酒がささげられる。ミサで使われる薄いパン(聖餅、ホスチア)は、2枚の鉄の板の間に生地をはさんで焼く型でつくられた。型には、十字架などの模様が刻まれていた。

9〜10世紀ごろから、聖餅を焼く型と並んで、同じような型で焼く、少し甘い薄焼きの菓子もつくられるようになった。これがウーブリである。

2. ウーブリ ― ワッフルの祖先

2-1. ウーブリとは

ウーブリ(oublie)は、2枚の焼き型ではさんで焼く、薄くて丸い、または筒状に巻いた菓子である。もとは、聖別される前の聖餅を指す言葉であった。名前は、教会のラテン語で「ささげもの」を意味する「オブラータ(oblata)」に由来するとされる。

ウーブリは、教会の祭日などに、人々のおやつとして売られた。夜の町では、ウーブリ売りが、ウーブリを入れたかごを背負い、声をあげて売り歩いたといわれる。

2-2. ウーブリ職人の組合

13世紀のパリでは、ウーブリを焼く職人たちが組合をつくっていた。1270年、フランス王ルイ9世の時代に、ウーブリ職人の組合の規約が定められた。この規約は、1406年と1479年に改められている。

規約には、職人になるための厳しい決まりが定められていた。とくに有名なのが、親方になるための試験である。

親方の試験(1日で焼く量)数
大きなウーブリ500枚
シュプリカシオン(別の種類のウーブリ)300枚
エストレ(別の種類のウーブリ)200枚

1日に合わせて1000枚。焼き型を火にかけ、生地を流し、はさんで焼き、外す。その作業を、同じ品質で何百回もくり返さなければならなかった。

また、教会の祭日に店を出すときは、けんかを防ぐため、ウーブリ職人どうし、かまどを約4m離して店を出す決まりもあった。人気の商売だったことがうかがえる。

2-3. ウーブリからゴーフル、ワッフルへ

ウーブリを焼く型は、しだいに格子模様の型へと発展し、厚みのある生地を焼くようになった。これが、フランス語のゴーフル(gaufre)、英語のワッフル(waffle)につながる。もっとも古いワッフルのレシピは、14世紀末のフランスの家政書『パリの家長』に載っている。

16世紀には、ウーブリ職人の組合と、パイなどをつくる菓子職人(パティシエ)の組合がひとつになった。ウーブリを焼く技術は、パティシエの仕事の一部となったのである。

現在も、筒状に巻いた薄焼きの菓子や、アイスクリームのコーン、ベルギーのワッフル、フランスのゴーフルなど、ウーブリの子孫といえる菓子は数多い。日本のゴーフルや、薄焼きせんべいのような洋菓子にも、その面影を見ることができる。

3. 中世の職人とギルド

3-1. ギルドとは

中世の都市では、同じ仕事をする職人や商人がギルド(同業者組合)をつくった。ギルドは、仕事の質を守り、値段や作り方を決め、よそ者が勝手に商売をすることを防いだ。そのかわり、組合員には、決まりを守り、品質のよい品物をつくる責任があった。

ギルドの役割内容
品質を守る材料や作り方、重さを決め、守らない者を罰した
仕事を守る組合員でない者が、その町で商売をすることを禁じた
職人を育てる徒弟(見習い)→ 職人 → 親方という順に、技術を身につけさせた
助け合う病気やけがをした組合員や、その家族を助けた

徒弟は、親方の家に住みこんで何年も修業し、職人になった。職人はさらに経験を積み、試験に合格して、ようやく自分の店をもつ親方になることができた。親方になるための試験の作品を、フランス語で「シェフ・ドゥーヴル」(傑作)という。今、「最高傑作」を意味する言葉として使われている「シェフ・ドゥーヴル」は、もとは職人の試験の作品のことであった。

3-2. パン職人の厳しい決まり

パンは、都市の人々の命を支える食べ物であったため、パン職人の仕事には、特に厳しい決まりがあった。中世のパリのパン職人の決まりには、次のようなものがあった。

決まり内容
休みの日日曜日はパンを焼かない。年に約26日の教会の祭日も休む
品質の検査組合の検査役が、パンの品質や重さを調べた
よそのパン町の外でつくられたパンは、土曜日以外は町に入れることを許されなかった

パンの重さをごまかしたり、質の悪い粉を使ったりした職人は、重く罰せられた。パンの値段と重さは、都市にとって大きな関心事だったのである。

3-3. パン屋から菓子屋が分かれる

中世の都市では、仕事が細かく分かれていった。パン職人、ウーブリ職人、そして肉や魚、果物などを生地で包んで焼くパテ(パイ)をつくる職人などが、それぞれ組合をつくった。この「生地(パート)で包んで焼く」職人が、のちのパティシエ(菓子職人)の祖先である。

このころの「パティシエ」は、今のように甘い菓子だけをつくるのではなく、肉のパイなどもつくる職人であった。甘い菓子を専門とする職人が生まれるのは、もう少し先のことである(第5章・第7章参照)。

4. 中世の菓子の数々

4-1. プレッツェル

プレッツェルは、細長くのばした生地を、腕を組んだような形に結んで焼いたパンである。

その起源については、「610年ごろ、イタリアの修道士が、祈るときに胸の前で腕を組む子どもの姿をまねてつくり、ごほうびとして配った」という話が広く知られている。しかし、この話には確かな証拠がなく、伝説と考えられている。

確かな記録としては、12世紀のアルザス地方(今のフランス東部)で書かれた写本『ホルトゥス・デリキアルム』(悦楽の園)に、プレッツェルらしきものが描かれている。また、南ドイツでは、少なくとも12世紀から、プレッツェルがパン屋の看板として使われてきた。今もドイツの町では、パン屋の店先に、金色のプレッツェルの看板が下がっているのを見ることができる。

プレッツェルは、小麦粉と水だけでつくることができた。そのため、卵や乳製品、肉などを断つ四旬節(復活祭の前の節制の期間)の食べ物としても食べられた。

4-2. レープクーヘン

レープクーヘンは、ドイツの伝統的な焼き菓子で、蜂蜜と香辛料(シナモン、クローブ、ナツメグなど)をたっぷり使い、ナッツを加えて焼いたものである。13世紀ごろ、ドイツのフランケン地方の修道院でつくられ始めたとされる。

レープクーヘンをつくる職人の記録は、ウルムで1296年、ニュルンベルクで1395年に見られる。ニュルンベルクは、東方からの香辛料が集まる交易の町であり、周りの森では蜂蜜がたくさんとれた。こうした条件が、ニュルンベルクを今も続くレープクーヘンの名産地にした。

レープクーヘンの生地の下には、薄いオブラートが敷かれていることがある。これは、修道院の聖餅とのつながりを示すものとされる。クリスマスの季節に欠かせない菓子として、今も愛されている。

4-3. マジパン

マジパンは、すりつぶしたアーモンドと砂糖を練り合わせた菓子である。細工がしやすく、果物や動物の形につくったり、ケーキの飾りに使ったりする。

マジパンの起源には、スペインのトレドで生まれたという説、アラブの世界から伝わったという説などがあり、はっきりしない。アーモンドと砂糖を練る菓子は、中東やアラブの世界で古くから好まれていたので、砂糖とアーモンドがヨーロッパに入ってきた流れの中で生まれたと考えられる。ラテン語で書かれたマジパンの記録は、15世紀の終わり(1483〜1492年)のものが知られている。

中世の終わりから近世にかけて、マジパンは、砂糖とアーモンドという高価な材料を使う、ぜいたくな菓子であった。ドイツのリューベックなど、マジパンで有名な町も生まれた。

4-4. 薬屋の砂糖菓子とドラジェ

第1章で学んだように、中世の砂糖は薬でもあった。薬屋(薬剤師)は、砂糖や蜂蜜、香辛料を使って、さまざまな薬をつくった。

ドラジェは、アーモンドなどの木の実を、砂糖の衣で包んだ菓子である。その名前は、古代ギリシャで食後のつまみやデザートを意味した「トラゲーマタ」に由来するという説がある。フランスでは、13世紀に、ヴェルダンの薬剤師がアーモンドを砂糖と蜂蜜で包んだのが始まりという話が伝えられている。

ヴェルダンは、今もドラジェの名産地として知られる。ドラジェは、結婚式や子どもの洗礼のお祝いに配られる菓子として、ヨーロッパで今も大切にされている。

菓子主な材料中世の背景
ウーブリ小麦粉、卵、蜂蜜など聖餅の型から生まれた薄焼き菓子。ワッフルの祖先
プレッツェル小麦粉、水四旬節の食べ物、パン屋の看板
レープクーヘン蜂蜜、香辛料、ナッツ修道院と、香辛料の集まる交易の町
マジパンアーモンド、砂糖アラブ世界の影響。ぜいたくな菓子
ドラジェアーモンド、砂糖薬屋の砂糖菓子。お祝いの菓子

5. 王侯貴族の宴会と砂糖

5-1. 宴会の「アントルメ」

中世の王侯貴族の宴会では、たくさんの料理が何回にも分けて出された。料理と料理の間には、客を楽しませるための見世物や、目を楽しませる凝った料理が出された。これを、フランス語で「アントルメ」(entremets、「料理と料理の間」の意味)という。

アントルメには、歌や踊り、手品などの余興のほか、動物や城の形につくった料理などもあった。高価な砂糖を使って、城や船、人の形などを細工したものは、主人の富と力を客に見せつけるものであった。

時代が下るにつれ、アントルメは甘い料理を指すようになり、現在のフランス語では、デザートとして出すケーキ(特に大きなホールのケーキ)を意味する言葉になっている。

5-2. 香辛料と砂糖の料理

中世の上流の料理では、コショウ、シナモン、ショウガ、クローブ、ナツメグ、サフランなどの香辛料と、砂糖がふんだんに使われた。甘い味、辛い味、酸っぱい味がまじり合った料理が好まれ、肉料理にも砂糖がかけられた。

香辛料と砂糖は、遠い東方から運ばれてくる高価な品物であり、それをたくさん使うことは、ぜいたくと権力のしるしであった。ワインに砂糖や蜂蜜と香辛料を加えた「イポクラス」という飲み物も、宴会の最後に楽しまれた。

6. キリスト教の暦と菓子

6-1. 断食と祭り

中世のキリスト教の暦では、肉や卵、乳製品を食べてはならない断食の日や期間が、1年のうちに何度もあった。特に、復活祭の前の約40日間の四旬節は、もっとも大切な節制の期間であった。

断食の期間には、卵やバター、乳を使わない食べ物が工夫された。プレッツェルは、その代表的な例である。また、四旬節に入る前には、家に残った卵やバター、油を使い切るため、揚げ菓子などをたくさんつくって食べる謝肉祭(カーニバル)の習慣が広がった。

6-2. 祭りと菓子

キリスト教の祭りには、それぞれ決まった菓子が結びついていった。

祭り意味菓子とのつながり
クリスマス(降誕祭)キリストの誕生を祝うレープクーヘンなど、蜂蜜と香辛料の菓子。シュトーレン(第6章参照)
公現祭(1月6日)東方の三博士がキリストを訪ねた日王様の菓子(のちのガレット・デ・ロワ)
謝肉祭(カーニバル)四旬節に入る前のお祭り卵や油脂を使い切る揚げ菓子
四旬節復活祭の前の節制の期間卵や乳を使わない食べ物(プレッツェルなど)
復活祭(イースター)キリストの復活を祝う卵を使った菓子。節制が明けたお祝い

祭りと菓子の結びつきは、今もヨーロッパの菓子文化の中心にある。世界の行事と菓子については、第16章でくわしく学ぶ。

伝説と史実

よく語られるお話と、確かな記録からわかることを比べてみましょう。カードをタップすると、史実がめくれます。

🔮 よく語られる話「プレッツェルは、610年にイタリアの修道士が、祈る子どもの腕の形をまねてつくった」
📜 史実ではこの話には確かな証拠がなく、伝説とされる。確かな記録は、12世紀のアルザスの写本に描かれた絵と、12世紀から南ドイツでパン屋の看板に使われてきたことである。
🔮 よく語られる話「ドラジェは、古代ローマの菓子職人ドラガトゥスが、アーモンドをうっかり蜂蜜に落として生まれた」
📜 史実では裏付けのない伝説。名前の由来はギリシャ語の「トラゲーマタ」(食後のつまみ)とする説があり、フランスでは13世紀のヴェルダンの薬剤師の話が伝えられている。
🔮 よく語られる話「中世の菓子職人は、今と同じように甘いお菓子だけをつくっていた」
📜 史実では中世の「パティシエ」は、肉や魚を生地で包んで焼くパイもつくる職人であった。甘い菓子を専門とする職人が生まれるのは、もっと後の時代である。
🔮 よく語られる話「マジパンは、ドイツのリューベックで生まれた」
📜 史実ではリューベックはマジパンの名産地として有名だが、起源は、スペインのトレド説、アラブ世界から伝わった説などがあり、はっきりしない。

製菓とのつながり

製菓の言葉の中の中世

今の製菓の言葉の中には、中世から続く言葉がたくさんある。アントルメ(ケーキ)は、宴会の「料理と料理の間」から。パティシエは、生地(パート)で包んで焼く職人から。シェフ・ドゥーヴル(傑作)は、親方になるための試験作品から。言葉の由来を知ると、職人の仕事の重みが見えてくる。

型で焼く菓子

ウーブリやワッフル、ゴーフルのように、型ではさんで焼く菓子は、中世の聖餅の型から生まれた。型の温度を一定に保ち、生地の量を一定にし、焼き時間を守ることで、同じ品質の菓子を何百枚も焼くことができる。1日1000枚を焼いた中世の職人たちの技術は、今の製菓の基本である「正確な計量」と「工程の管理」そのものである。

四旬節と卵を使わない菓子

卵や乳製品を断った四旬節の食べ物の工夫は、今の卵・乳を使わない菓子の考え方にも通じる。食物アレルギーのあるお客様や、植物性の食品を選ぶお客様のための菓子づくりにも、何百年も前の人々の知恵が生かせるかもしれない。

まとめ

中世のヨーロッパでは、修道院と都市の職人のギルドが菓子づくりを支えた。修道院では、ミサに使う聖餅が2枚の鉄の型で焼かれ、そこから少し甘い薄焼き菓子ウーブリが生まれた。パリのウーブリ職人の組合は、1270年、ルイ9世の時代に規約を定め、親方になるには1日に大ウーブリ500枚などを焼く試験があった。ウーブリは、格子模様の型のゴーフル(ワッフル)へと発展し、16世紀には菓子職人の組合とひとつになった。

ギルドは品質と仕事を守り、徒弟 → 職人 → 親方の順に技術を伝えた。親方の試験作品「シェフ・ドゥーヴル」は、今の「傑作」の語源である。パン職人には、休日や品質検査などの厳しい決まりがあった。生地で包んで焼く職人が、のちのパティシエの祖先である。

プレッツェルは12世紀の写本に描かれ、パン屋の看板となり、四旬節に食べられた(610年の修道士の話は伝説)。レープクーヘンは蜂蜜と香辛料の菓子で、ウルム(1296年)やニュルンベルク(1395年)に職人の記録がある。マジパンはアーモンドと砂糖の菓子で、起源には諸説がある。ドラジェは薬屋の砂糖菓子から生まれ、お祝いの菓子となった。

王侯貴族の宴会では、料理の間の余興や凝った料理「アントルメ」に砂糖細工が使われ、のちにアントルメはケーキを意味する言葉になった。四旬節の断食と謝肉祭、クリスマスや復活祭などの祭りは、菓子の形や食べ方に大きな影響を与えた。

第一部はここまでである。次章からは第二部として、ヨーロッパの菓子が大きく花開く時代を訪ねる。まずは、大航海時代に新大陸からもたらされたカカオと、世界を変えた砂糖の物語である。

※ 本ページは『sweets note. 図書館』のお菓子の歴史 第3章です。製菓衛生師養成課程の科目「社会」のうち、菓子の歴史と文化にあたる内容を扱っています。

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