お菓子の歴史 第12章:南蛮菓子

第12章

お菓子の歴史 第三部 日本の菓子の物語

南蛮菓子

時代:戦国時代〜江戸時代初め

はじめに

16世紀の半ば、九州の港に、見たこともない大きな船がやってきた。乗っていたのは、ポルトガルの商人や、キリスト教を伝える宣教師たちである。日本の人々は、南の海からやってきた彼らを「南蛮人」と呼んだ。

南蛮人がもたらしたのは、鉄砲やキリスト教だけではなかった。砂糖と卵をたっぷり使った、ふわふわの焼き菓子。小さな星のような、色とりどりの砂糖菓子。それまでの日本の菓子とはまったく違う、甘くて、香ばしくて、ぜいたくな菓子の数々であった。

前の章で学んだように、千利休の茶会の菓子は、栗や昆布、味噌を塗った「ふのやき」など、素朴なものが中心だった。そんな時代に、南蛮の菓子は、どれほどの驚きをもって迎えられたことだろう。

カステラ、金平糖、ボーロ、有平糖、カルメラ。今も私たちの身近にあるこれらの菓子は、どれも、ポルトガル語から名前をとった「南蛮菓子」である。この章では、海を越えてやってきた甘い菓子の物語を訪ねる。

1. 南蛮人の来航

1-1. ポルトガル人と宣教師

1543年、ポルトガル人を乗せた船が種子島に流れ着き、日本に鉄砲が伝わった。これが、日本とヨーロッパの最初の本格的な出会いとされる。1549年には、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教を伝えた。

その後、ポルトガルの船は、平戸や長崎など九州の港に来航し、日本との貿易を行った。これを南蛮貿易という。1571年には、長崎がポルトガルとの貿易港として開かれた。

年できごと
1543年ポルトガル人が種子島に来航し、鉄砲が伝わる
1549年ザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教を伝える
1569年フロイスが織田信長に金平糖を献上する
1571年長崎がポルトガルとの貿易港として開かれる
1624年長崎の福砂屋が創業する(家の伝え)
1639年江戸幕府がポルトガル船の来航を禁止する
1641年オランダ商館が長崎の出島に移る

1-2. 宣教師と菓子

宣教師たちは、キリスト教を広めるために、日本の人々、とくに大名たちと親しくなる必要があった。そのとき、めずらしい南蛮の品々は、大切な贈り物となった。ガラスの器、時計、眼鏡、ワイン。そして、砂糖菓子である。

当時の日本では、砂糖はまだたいへんな貴重品であった。その砂糖をふんだんに使った菓子は、権力者たちの心をつかむ「甘い外交」の道具でもあった。

2. 信長と金平糖

2-1. フラスコに入った星

1569年、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、京都で織田信長に会った。信長は、将軍足利義昭のための二条城の工事を、自ら現場で指揮していた。フロイスはそこで信長に、ガラスのフラスコに入った金平糖と、ろうそくを贈ったと記録されている。

金平糖は、ポルトガル語の「コンフェイト(confeito、砂糖菓子)」から名づけられた。小さな粒のまわりに砂糖の蜜をかけては乾かし、また蜜をかけては乾かし……と、何日もかけて少しずつ大きく育てていく。その表面には、小さな角(つの)がいくつも生まれる。

透明なガラスの瓶に入った、星のような形の砂糖菓子。ガラスも砂糖も貴重だった時代に、それは信長の目にどれほど美しく映ったことだろうか。

2-2. 金平糖の秘密

金平糖は、最初は南蛮から輸入される高価な品であり、日本でつくるのは難しかった。作り方が知られていなかったからである。

江戸時代の作家井原西鶴は、『日本永代蔵』(1688年)の中で、長崎の人が苦心のすえに金平糖の作り方を見つけ出し、財をなしたという話を描いている。やがて作り方が知られるようになると、金平糖は、身近な菓子となっていった。

今でも、手づくりの金平糖は、大きな回転する釜の中で、2週間ほどかけてつくられることがある。なぜあのような角ができるのかは、長いあいだ「なぞ」とされ、研究の題材にもなってきた。

3. カステラ

3-1. カステラの名前

カステラは、南蛮菓子の代表である。名前は、スペインのカスティーリャ王国にちなむとする説が有力で、ポルトガル語で「カスティーリャのパン」「カスティーリャのお菓子」という意味の言葉から来たとされる。

カステラのルーツは、ポルトガルやスペインの、卵と砂糖と小麦粉でつくるスポンジ菓子だと考えられている。ポルトガルには今も、パン・デ・ローという、カステラによく似た菓子がある。

3-2. 長崎のカステラ

カステラは、16世紀の後半、ポルトガル人によって長崎や平戸に伝えられたといわれる。1625年に書かれた『太閤記』には、酒を飲まない人へのもてなしの品として「かすていら」が登場する。1626年、後水尾天皇が二条城に行幸したときの料理にも、カステラが出されている。

長崎の老舗福砂屋は、1624年(寛永元年)の創業と伝えられている。長崎では、このころからカステラづくりが始まったとされる。

3-3. 日本で育ったカステラ

江戸時代のカステラのレシピは、小麦粉・砂糖・卵の3つの材料だけでつくる、とてもシンプルなものであった。ふくらし粉(膨張剤)も使わない。卵をよく泡立てた、その泡の力だけでふくらませるのである。

その後、カステラは日本で独自に進化した。

ポルトガルのパン・デ・ロー日本のカステラ
丸い型で焼くことが多い四角い木枠で焼き、長方形に切り分ける
卵・砂糖・小麦粉卵・砂糖・小麦粉に、のちに水飴などが加わる
地方によって、中が半熟のものもあるしっとり、きめ細かい生地
―底にざらめ糖を敷くものもある

水飴を加えると、生地がしっとりして、乾きにくくなる。四角い木枠で焼く方法や、底にざらめをしく工夫など、今のカステラは、長い年月をかけて日本の職人たちが育ててきた「日本のお菓子」なのである。

4. いろいろな南蛮菓子

4-1. ポルトガル語から生まれた名前

南蛮菓子の名前には、ポルトガル語がそのまま残っている。

菓子もとの言葉(ポルトガル語)意味・内容
カステラCastella(カスティーリャ)スペインの地名から
金平糖confeito(コンフェイト)砂糖菓子
有平糖alfeloa(アルフェロア)砂糖を煮詰めた飴
カルメラcaramelo(カラメロ)カラメル、砂糖菓子
ボーロbolo(ボーロ)ケーキ、焼き菓子
ビスカウトbiscoito(ビスコイト)ビスケット
パンpão(パン)パン

有平糖は、砂糖を煮詰めて、のばしたりねじったりして形をつくる飴である。のちに、花や鳥などの形をつくる美しい細工菓子へと発展し、茶の湯の干菓子としても使われるようになった。

カルメラは、砂糖を煮詰めて重曹を加え、ふくらませて固めた菓子である。作り方が簡単なため、早くから駄菓子として親しまれた。今では「カルメ焼き」と呼ばれることが多い。

ボーロは、小麦粉、砂糖、卵などでつくる焼き菓子である。江戸時代には「ほうろ」「ほうる」とも書かれた。佐賀の丸ぼうろや、京都のそばぼうろなど、各地の銘菓に名前が残っている。

4-2. 鶏卵素麺

鶏卵素麺(けいらんそうめん)は、卵黄を、煮立てた砂糖の蜜の中に細く流し入れて固め、そうめんのような細い糸にした菓子である。ポルトガルには今も、同じ作り方の「フィオス・デ・オヴォス(卵の糸)」という菓子がある。タイにも「フォイトーン」という、よく似た菓子が伝わっている。

福岡・博多の松屋では、1673年に初代の松屋利右衛門が、長崎で製法を学び、鶏卵素麺をつくり始めたと伝えられている。のちに福岡藩の献上品にもなった。

鶏卵素麺には卵黄だけを使うため、卵白がたくさん余る。博多の石村萬盛堂は、1907年、その卵白を使って、マシュマロの菓子「鶴乃子」をつくり出した。

4-3. 卵を食べなかった日本人

南蛮菓子が日本の菓子に与えた大きな影響のひとつが、「卵」である。

仏教の影響が強かった日本では、古くから、動物の肉や卵を食べることは避けられてきた。ところが、南蛮菓子は、卵をたっぷり使う。カステラも、ボーロも、鶏卵素麺も、卵なしではつくれない。

南蛮菓子をきっかけに、卵は菓子の材料として使われるようになった。今でも、和菓子の材料は、米、小麦、豆、砂糖などの植物性のものがほとんどだが、卵は、和菓子に使われる数少ない動物性の材料である。その流れは、南蛮菓子から始まったといえる。

4-4. 各地に残る南蛮のなごり

南蛮の食べ物の名残は、意外なところにも残っている。

飛竜頭(ひりょうず、ひろうす)は、今では、豆腐に野菜などを混ぜて油で揚げた「がんもどき」の、関西での呼び名である。この名前は、ポルトガルの揚げ菓子「フィリョース(filhós)」から来たといわれる。もとは小麦粉の生地を揚げた南蛮菓子だったものが、名前だけを残して、まったく別の食べ物になったのである。

愛媛県松山市の銘菓「タルト」は、カステラのような生地で柚子の香りのあんを巻いた菓子である。江戸時代のはじめ、松山藩の藩主が、長崎でポルトガル船の警備にあたったときに南蛮の菓子に出会い、その製法を持ち帰ったのが始まりと伝えられている。名前は南蛮菓子の「タルト」でも、形はまったく違う、日本独自の菓子である。

また、江戸時代のはじめごろにまとめられたとされる『南蛮料理書』という書物には、「かすていら」「ぼうる」「こんぺいとう」などの南蛮菓子の作り方が記されている。南蛮の味を、なんとか日本でも再現しようとした人々の熱意が伝わってくる。

4-5. 南蛮菓子のゆくえ

南蛮菓子のその後は、さまざまである。

その後菓子
高級な菓子として残ったカステラ
身近な菓子になった金平糖、有平糖
駄菓子になったカルメラ
地方の銘菓に残った丸ぼうろ、そばぼうろ、鶏卵素麺
江戸時代には広まらなかったビスカウト(ビスケット)、パン

ビスケットやパンは、江戸時代にはほとんど広まらなかった。それらが日本の人々の暮らしに入ってくるのは、幕末から明治時代のことである(第14章参照)。

5. 鎖国と砂糖の道

5-1. ポルトガルからオランダへ

江戸幕府は、キリスト教の広がりをおそれて、しだいに外国との交流を制限していった。1639年にはポルトガル船の来航が禁止され、1641年には、オランダ商館が長崎の出島に移された。これ以後、ヨーロッパとの貿易は、出島のオランダと、中国の商人に限られた。

それでも、長崎の港には、オランダ船や中国船によって、たくさんの砂糖が運ばれてきた。南蛮菓子の技術は、長崎の菓子職人たちによって受け継がれ、日本の菓子として根づいていった。

5-2. シュガーロード

長崎に入った砂糖や菓子の技術は、長崎と北九州の小倉を結ぶ長崎街道を通って、九州の各地へ、そして全国へと広がっていった。この街道沿いには、今も、砂糖を使った菓子の名物がたくさん残っている。

長崎街道は「シュガーロード」とも呼ばれ、2020年度には「砂糖文化を広めた長崎街道〜シュガーロード〜」として、日本遺産に認定された。

街道沿いの町名物の菓子
長崎市カステラ、有平糖
諫早市諫早おこし
小城市小城羊羹
佐賀市丸ぼうろ
飯塚市千鳥饅頭、ひよこ
北九州市金平糖、くろがね羊羹

伝説と史実

よく語られるお話と、確かな記録からわかることを比べてみましょう。カードをタップすると、史実がめくれます。

🔮 よく語られる話「カステラという名前は、ポルトガル語の『卵白を城(カステロ)のように高く泡立てる』という言葉から来た」
📜 史実ではよく語られる話だが、スペインのカスティーリャ王国にちなむ「カスティーリャのパン(お菓子)」から来たとする説が有力である。
🔮 よく語られる話「カステラは、ポルトガルのお菓子がそのまま伝わったもの」
📜 史実ではルーツはポルトガルなどのスポンジ菓子だが、四角い木枠で焼く方法、水飴を加えたしっとりした生地、底のざらめなどは、日本で生まれた工夫。カステラは日本で育ったお菓子である。
🔮 よく語られる話「織田信長は、金平糖を食べて南蛮の文化に夢中になった」
📜 史実ではフロイスが1569年に、フラスコに入った金平糖を信長に贈ったことは記録に残る。ただし、信長が金平糖をどう思ったかまでは記されていない。
🔮 よく語られる話「昔の日本人も、卵をふつうに食べていた」
📜 史実では仏教の影響で、卵を食べることは長く避けられてきた。卵が菓子に使われるようになったのは、南蛮菓子がきっかけである。

製菓とのつながり

卵の泡の力 ― 共立てと別立て

カステラは、膨張剤を使わず、卵の泡の力だけでふくらませる。卵には、泡をつくり、熱で固まる性質(起泡性と熱凝固性)がある。全卵を泡立てる方法を「共立て」、卵黄と卵白を分けて、卵白を泡立てる方法を「別立て」という。スポンジケーキやカステラは、こうした卵の性質を生かした菓子である。

砂糖の煮詰め温度

有平糖、カルメラ、鶏卵素麺は、どれも砂糖の蜜を煮詰める技術を使う。砂糖の蜜は、煮詰める温度によって、性質が大きく変わる。

煮詰め温度のめやす状態使われる菓子
105〜110℃前後シロップ状鶏卵素麺の蜜など
125〜135℃前後やわらかく固まるカルメラなど
140〜160℃前後冷えるとかたい飴になる有平糖、あめ細工
160℃以上色づいてカラメルになるカラメルソース

※ 温度は、砂糖の濃度や配合、用途によって変わる。

南蛮菓子は、日本の菓子職人に、砂糖を煮詰めて温度で性質を変えるという技術を伝えた。

金平糖と結晶

金平糖は、砂糖の結晶を少しずつ大きく育てる菓子である。砂糖の蜜をかけて乾かすと、表面に新しい結晶が積み重なっていく。温度、蜜の濃さ、釜の回転の速さを調整しながら、職人の勘と経験でつくりあげる。砂糖の結晶の性質を知ることは、フォンダン、糖衣がけ(ドラジェ)など、洋菓子の技術にもつながっている。

まとめ

1543年、ポルトガル人が種子島に来航して鉄砲を伝え、1549年にはザビエルがキリスト教を伝えた。ポルトガルとの南蛮貿易によって、砂糖と卵をたっぷり使った「南蛮菓子」が日本にもたらされた。

1569年、宣教師フロイスは、二条城の工事現場で、織田信長にフラスコに入った金平糖を贈った。金平糖(confeito)、有平糖(alfeloa)、カルメラ(caramelo)、ボーロ(bolo)、ビスカウト(biscoito)など、南蛮菓子の名前にはポルトガル語が残る。

カステラは、カスティーリャ王国にちなむ名前とする説が有力で、1626年の二条城行幸の料理にも出された。長崎の福砂屋は1624年創業と伝えられる。小麦粉・砂糖・卵だけでつくる菓子は、四角い木枠、水飴、ざらめなどの工夫を重ね、日本のお菓子として育っていった。鶏卵素麺(1673年、博多の松屋)は、ポルトガルの「フィオス・デ・オヴォス」と同じ作り方である。南蛮菓子をきっかけに、卵は和菓子の数少ない動物性の材料となった。

1639年にポルトガル船の来航が禁止されたあとも、出島のオランダや中国の商人によって砂糖が運ばれた。長崎から小倉へ続く長崎街道は「シュガーロード」と呼ばれ、2020年度に日本遺産に認定された。

次章では、江戸時代に、砂糖の国産化とともに花開いた、京菓子、練羊羹、桜餅、大福などの「江戸の菓子」の物語を訪ねる。

※ 本ページは『sweets note. 図書館』のお菓子の歴史 第12章です。製菓衛生師養成課程の科目「社会」のうち、菓子の歴史と文化にあたる内容を扱っています。

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