お菓子の歴史 第三部 日本の菓子の物語
明治の洋菓子とパン
時代:幕末〜大正時代(19世紀半ば〜1920年代)
はじめに
1853年、アメリカのペリーが黒船で浦賀にやってきた。200年以上続いた鎖国の時代が終わり、日本は世界に向けて扉を開いた。そして1868年、明治の世が始まる。
「文明開化」のかけ声のもと、日本には、西洋の服、建物、乗り物、そして食べ物が一気に入ってきた。牛肉、牛乳、パン、ビスケット、アイスクリーム、チョコレート。南蛮菓子の時代には広まらなかった西洋の味が、ついに日本の人々の暮らしに入ってくる。
けれども、日本の人々は、西洋の食べ物をそのまま受け入れたわけではなかった。酒まんじゅうの技術でパンをつくり、そこに小豆のあんを入れて「あんぱん」を生み出した。日本人の舌に合うように、西洋の菓子を工夫していったのである。
この章では、和と洋が出会い、日本の洋菓子とパンが生まれた時代の物語を訪ねる。
1. 幕末のパンとビスケット
1-1. パン祖・江川太郎左衛門
鎖国の時代にも、長崎の出島では、オランダ人のためにパンが焼かれていた。しかし、日本人がパンを食べることは、ほとんどなかった。
そのパンに目をつけたのが、伊豆の韮山の代官で、西洋の砲術を学んでいた江川太郎左衛門(江川英龍)である。外国の船が日本の近くに現れるようになり、国を守る必要を感じていた江川は、戦いのときに持ち運べて、日持ちのする兵糧として、パンに注目した。
1842年4月12日、江川は、自分の屋敷にかまどを築き、兵糧のためのパンを焼いた。これが、日本人が自分たちのためにつくったパンの始まりとされ、江川は「パン祖」と呼ばれている。のちに、パン食普及協議会は、4月12日を「パンの記念日」、毎月12日を「パンの日」と定めた。
1-2. 水戸藩のビスケット
幕末には、ビスケットも兵糧として注目された。水戸藩の蘭方医が、長崎でオランダ人からビスケットの作り方を学び、その製法を水戸藩に伝えたとされる。ビスケットは、軽くて日持ちがし、持ち運びに便利な保存食であった。
1-3. 横浜の西洋のパン屋
1859年に横浜などの港が開かれると、外国人が住む町には、西洋式のパン屋が生まれた。外国人の注文に応じて、日本人の職人も西洋のパンの焼き方を学んでいった。横浜は、日本の洋食とパンの、大切な入り口のひとつとなった。
2. あんぱんの誕生
2-1. 木村屋
日本のパンの歴史で、もっとも有名な人物の一人が、木村安兵衛である。もとは武士だった安兵衛は、明治維新で職を失い、1869年、東京の芝に「文英堂」というパン屋を開いた。翌1870年には銀座に移り、店の名前を「木村屋」と改めた。
当時、西洋のパンは、ホップや西洋の酵母でつくる、日本人にはなじみのない味であった。そこで安兵衛と息子の英三郎は、日本人が昔から親しんできた、酒まんじゅうの「酒種」(米と麹からつくる酵母)でパンを発酵させることを考えた。
2-2. 明治天皇とあんぱん
1874年、木村屋は、酒種でふくらませたパンに、小豆のあんを包んだ「酒種あんぱん」を売り出した。パンという西洋の食べ物と、あんという日本の味が、ひとつになった瞬間である。
翌1875年4月4日、木村屋は、明治天皇が東京の向島の水戸藩の屋敷をたずねた際に、あんぱんを献上した。このとき、木村屋とつながりのあった山岡鉄舟が、献上の後押しをしたとされる。献上されたあんぱんには、奈良の吉野山の八重桜の塩漬けがへそに埋めこまれていた。これが今も続く「桜あんぱん」である。4月4日は、のちに「あんぱんの日」とされた。
2-3. パンの日本化
あんぱんの成功のあと、日本では、日本人の好みに合わせた「菓子パン」が次々と生まれた。
| 菓子パン | 年 | 店・人物 | 内容 |
|---|---|---|---|
| あんぱん | 1874年 | 木村屋 | 酒種のパンに小豆のあん |
| ジャムパン | 1900年 | 木村屋 | 軍用の乾パンを研究する中で生まれた |
| クリームパン | 1904年 | 中村屋 | シュークリームのおいしさにヒントを得て、カスタードクリームを包んだ |
| カレーパン | 1927年 | 名花堂(のちのカトレア) | 洋食パンとして考案されたとする説が有力 |
| メロンパン | 不明 | 諸説あり | ― |
これらの菓子パンは、西洋のパンをもとにしながら、日本で生まれた「日本のパン」である。
3. 宮中と西洋料理
明治政府は、外国と対等につきあうために、西洋の文化を積極的に取り入れた。その中で、宮中の料理も変わっていった。
1873年(明治6年)には、宮中の晩餐会の料理がフランス料理となった。外国の王族や外交官をもてなす公式の宴会では、フランス料理が出されるようになり、それに合わせて西洋の菓子も用意されるようになった。1883年には、外国人を招いて舞踏会などを開く社交場「鹿鳴館」が東京に建てられた。
宮中や上流階級から始まった西洋料理と西洋菓子は、しだいに町のレストランや菓子店を通じて、人々の間にも広まっていった。
4. 日本の洋菓子店のはじまり
4-1. あいすくりん
1869年、横浜の馬車道で、町田房蔵が「あいすくりん」を売り出した。これが、日本で最初に売られたアイスクリームとされる。牛乳、卵、砂糖でつくったあいすくりんは、たいへん高価で、多くの人には手の届かないものであった。
4-2. 米津凮月堂
江戸時代から続く菓子店「凮月堂」からのれん分けした米津松造は、1872年、東京の京橋に「米津凮月堂」を開いた。米津凮月堂は、早くから西洋菓子の製造に取り組み、1875年ごろにビスケットをつくり始め、1878年ごろには機械を輸入して、本格的な製造を始めたとされる。チョコレートを売り出したのも、早い時期であった。
4-3. 森永太一郎
森永太一郎は、若いころにアメリカに渡り、10年以上にわたって、苦労しながら西洋菓子の作り方を学んだ。1899年に帰国すると、東京の赤坂溜池に、わずか2坪の小さな工場を開いて、マシュマロなどの西洋菓子をつくり始めた。これが、のちの森永製菓の始まりである。
森永は、1913年に「ミルクキャラメル」の名前で売り出し、1914年には、持ち運びやすい紙箱入りのミルクキャラメルを発売して大ヒットさせた。さらに1918年には、カカオ豆からチョコレートを一貫してつくる製造を始めたとしている。
4-4. 大正時代の洋菓子
大正時代(1912〜1926年)になると、都市に暮らす人々が増え、洋菓子は、少しずつ人々の身近なものになっていった。
| 年 | 店・人物 | できごと |
|---|---|---|
| 1910年 | 不二家 | 藤井林右衛門が横浜の元町に洋菓子店を開く |
| 1919年 | ユーハイム | カール・ユーハイムが広島でバウムクーヘンを焼いて販売 |
| 1922年 | グリコ | 江崎利一が大阪の三越で栄養菓子「グリコ」を発売 |
| 1922年ごろ | 不二家 | ショートケーキを売り出したとされる |
| 1923年 | ゴンチャロフ | 神戸でロシアの職人がチョコレートを広める |
| 1924年 | コロンバン | 門倉國輝が東京・大森に開店 |
| 1924年 | フロインドリーブ | 神戸でドイツ人のパン職人が開店 |
| 1931年 | モロゾフ | 神戸で開店し、のちにバレンタインのチョコレートを売り出す |
4-5. ユーハイムとバウムクーヘン
ドイツ人の菓子職人カール・ユーハイムは、第一次世界大戦のとき、中国の青島で捕虜となり、日本に連れてこられた。1919年3月、広島県物産陳列館で開かれた、捕虜がつくった品物の展示即売会で、ユーハイムはバウムクーヘンを焼いて販売した。これが、日本で初めて焼かれたバウムクーヘンとされる。
その建物は、のちの原爆ドームである。ユーハイムは、その後、横浜、そして神戸に店を開いた。1945年8月14日、終戦の前日に亡くなったが、妻のエリーゼと職人たちがその店を守り、ユーハイムのバウムクーヘンは今も日本中で愛されている。
4-6. ショートケーキの誕生
いちごと生クリームのショートケーキは、日本で生まれた洋菓子といわれる。アメリカの「ショートケーキ」は、さくさくしたビスケットのような生地に、いちごとクリームをはさんだものであった。それを、日本では、ふわふわのスポンジ生地に変えて、生クリームといちごで飾った。
不二家は、1922年ごろにショートケーキを売り出したとしている。また、コロンバンの門倉國輝が、日本のショートケーキの源流をつくったとする説もある。どちらが元祖かははっきりしないが、日本のショートケーキは、大正時代に生まれ、やがて日本中で愛される「ケーキの代表」となっていった。
5. 幕末〜大正時代の菓子の年表
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1842年 | 江川太郎左衛門が兵糧パンを焼く(4月12日) |
| 1853年 | ペリーが浦賀に来航 |
| 1859年 | 横浜などが開港 |
| 1868年 | 明治時代が始まる |
| 1869年 | 町田房蔵が横浜であいすくりんを売る/木村安兵衛が文英堂を開く |
| 1870年 | 銀座に移り、木村屋となる |
| 1872年 | 米津凮月堂が開店 |
| 1873年 | 宮中の晩餐会がフランス料理になる |
| 1874年 | 木村屋が酒種あんぱんを売り出す |
| 1875年 | 木村屋が明治天皇に桜あんぱんを献上(4月4日) |
| 1878年ごろ | 米津凮月堂が機械でビスケットを製造 |
| 1883年 | 鹿鳴館が建てられる |
| 1899年 | 森永太一郎が赤坂溜池に工場を開く |
| 1900年 | 木村屋がジャムパンを売り出す |
| 1904年 | 中村屋がクリームパンを売り出す |
| 1910年 | 不二家が横浜で創業 |
| 1914年 | 森永が紙箱入りのミルクキャラメルを売り出す |
| 1918年 | 森永がカカオ豆からのチョコレート一貫製造を始めたとする |
| 1919年 | ユーハイムが広島でバウムクーヘンを販売 |
| 1922年 | グリコ発売/不二家がショートケーキを売り出したとされる |
| 1924年 | コロンバン開店 |
伝説と史実
よく語られるお話と、確かな記録からわかることを比べてみましょう。カードをタップすると、史実がめくれます。
🔮 よく語られる話「宮中の晩餐会は、1870年にフランス式になった」
🔮 よく語られる話「ショートケーキは、1910年に不二家がつくった」
🔮 よく語られる話「1875年、米津凮月堂が日本で初めてビスケットを本格的に工場で生産した」
🔮 よく語られる話「アイスクリームの日(5月9日)は、町田房蔵があいすくりんを売り出した日」
🔮 よく語られる話「町田房蔵は、勝海舟とともに咸臨丸でアメリカに渡った」
製菓とのつながり
酒種とイースト
酒種は、米と麹からつくる発酵種で、酵母と乳酸菌などがふくまれる。ゆっくり発酵し、独特の香りとしっとりした食感が生まれる。一方、今のパンづくりで広く使われるイースト(パン酵母)は、パンづくりに向いた酵母を選んで増やしたもので、安定して早く発酵させることができる。酒種、ホップ種、イースト、天然酵母と、発酵の方法の違いが、パンの風味を大きく左右する。
カスタードクリームと食品衛生
中村屋のクリームパンに使われたカスタードクリームは、牛乳、卵黄、砂糖、小麦粉(またはコーンスターチ)を煮てつくる。栄養が豊富で水分も多いため、微生物が増えやすい。つくったらすぐに冷やし、低温で保存することが大切である。洋菓子の生クリームやカスタードは、温度管理が衛生の要となる。
スポンジ生地
日本のショートケーキに使われるスポンジ生地は、卵の泡の力でふくらませる生地である。南蛮菓子のカステラと同じように、卵の起泡性を生かしている。カステラの技術を持っていた日本の職人たちにとって、スポンジ生地は、なじみやすいものだったのかもしれない。
まとめ
幕末の1842年4月12日、韮山の代官江川太郎左衛門が兵糧パンを焼き、「パン祖」と呼ばれる。水戸藩では兵糧としてビスケットの製法が学ばれ、開港後の横浜には西洋式のパン屋が生まれた。
明治の木村屋は、酒まんじゅうの酒種でパンを発酵させ、1874年にあんぱんを売り出し、1875年4月4日には明治天皇に桜あんぱんを献上した。その後、ジャムパン(1900年)、中村屋のクリームパン(1904年)など、日本独自の菓子パンが生まれた。
1873年には宮中の晩餐会がフランス料理となった。1869年には町田房蔵が横浜で「あいすくりん」を売り、米津凮月堂はビスケットやチョコレートの製造に取り組んだ。アメリカで修業した森永太一郎は1899年に2坪の工場を開き、ミルクキャラメルを大ヒットさせた。
大正時代には、不二家、ユーハイム(1919年、のちの原爆ドームでバウムクーヘン)、グリコ、コロンバン、神戸の洋菓子店などが生まれ、日本独自のショートケーキも登場した。
次章では、戦争の時代を経て、昭和から現代へ。学校給食、クリスマスケーキ、製菓衛生師の誕生、そしてスイーツブームへと続く物語を訪ねる。
※ 本ページは『sweets note. 図書館』のお菓子の歴史 第14章です。製菓衛生師養成課程の科目「社会」のうち、菓子の歴史と文化にあたる内容を扱っています。

