お菓子の歴史 第11章:茶の湯と点心

第11章

お菓子の歴史 第三部 日本の菓子の物語

茶の湯と点心

時代:平安時代初め〜安土桃山時代

はじめに

羊羹(ようかん)の「羊」という字を、不思議に思ったことはないだろうか。小豆と砂糖と寒天でつくる羊羹に、羊はどこにも入っていない。

実は、羊羹のもとは、中国の「羊の肉の汁物」であった。それが日本に伝わり、肉を食べない禅宗のお寺で、小豆や小麦粉でつくる料理へと姿を変えた。そして、それを伝えたのは、中国の宋や元で修行して帰ってきた禅僧たちである。

鎌倉時代から室町時代にかけて、禅宗とともに、お茶と「点心(てんしん)」が日本に伝わった。点心とは、決まった食事の間にとる軽い食べ物のことで、羊羹や饅頭の祖先にあたる。やがて、お茶は「茶の湯」という日本独自の文化へと育ち、茶の湯の席で出される菓子が、和菓子を大きく発展させていく。

この章では、お茶と点心、そしてもう一人の菓祖神・林浄因の物語を訪ねる。

1. お茶の伝来

1-1. 栄西より前のお茶

日本にお茶を初めて伝えたのは栄西だと思われがちだが、実はそれより前から、お茶は日本に伝わっていた。平安時代の歴史書『日本後紀』には、815年、唐から帰国した僧の永忠が、嵯峨天皇にお茶を煎じて差し上げたことが記されている。

ただし、平安時代のお茶は、貴族や僧侶のごく一部が楽しむものにとどまり、遣唐使が廃止されると、しだいにすたれていった。

1-2. 栄西と『喫茶養生記』

栄西(1141〜1215年)は、宋で禅を学び、1191年に帰国して、日本に臨済宗を広めた僧である。栄西は、宋で親しんだ、粉にした茶葉に湯をそそいで泡立てて飲む方法(今の抹茶のもと)を伝えた。

栄西は、お茶の効能を説いた『喫茶養生記』を著した。最初の版は1211年、改訂版は1214年にまとめられている。その冒頭には「茶は養生の仙薬なり」と書かれている。お茶もまた、最初は「薬」として伝わったのである。

鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』には、1214年、二日酔いに苦しんでいた3代将軍源実朝に、栄西がお茶をすすめ、あわせて茶の徳をたたえる書物を献上したことが記されている。

年できごと
815年永忠が嵯峨天皇にお茶を差し上げる(『日本後紀』)
1191年栄西が宋から帰国
1211年『喫茶養生記』の最初の版
1214年栄西が二日酔いの源実朝にお茶をすすめる(『吾妻鏡』)

栄西は「日本で初めてお茶を伝えた人」ではなく、「お茶を飲む習慣を広めた人」というのが正確である。

2. 点心 ― 禅宗が伝えた軽食

2-1. 点心とは

禅宗のお寺では、正式な食事は1日に1〜2回と決められていた。その間にとる軽い食べ物を「点心」と呼んだ。「空腹の心に、点をうつように少しだけ食べる」という意味ともいわれる。

鎌倉時代から室町時代にかけて、宋や元で修行した禅僧たちが、この点心の文化を日本に持ち帰った。南北朝時代から室町時代のはじめにつくられた、手紙の書き方の教科書『庭訓往来(ていきんおうらい)』には、点心として、次のような食べ物の名前があげられている。

種類『庭訓往来』などに見える名前
羹(あつもの)羊羹、猪羹、驢腸羹、鼈羹(べっかん)など
麺類索麺(そうめん)、饂飩(うどん)など
饅頭饅頭

2-2. 羊羹は「羊の汁」だった

「羹」とは、熱い汁物、スープのことである。中国の「羊羹」は、文字どおり羊の肉の汁物であった。「猪羹」はいのししの肉、「鼈羹」はすっぽんの汁物である。

ところが、禅宗の僧は、肉を食べることが禁じられていた。そこで日本の禅寺では、肉の代わりに、小豆、小麦粉、葛、山芋などで、肉に似せた形をつくり、蒸して汁に入れて食べた。羊羹は、羊の肝の形に似せてつくったともいわれる。いわば、精進料理の「もどき料理」である。

やがて、汁に入れずに、蒸したものだけを食べるようになり、甘みをつけて、茶の席の菓子へと変わっていった。これが蒸羊羹である。ふつうの羊羹には甘葛煎などが使われ、貴重な砂糖を使ったものは、とくに「砂糖羊羹」と呼ばれた。今のような、寒天を使った練羊羹が登場するのは、ずっとあとの江戸時代のことである(第13章参照)。

2-3. 麺も点心だった

『庭訓往来』の点心には、羹や饅頭と並んで、索麺(そうめん)や饂飩(うどん)などの麺類も入っている。点心は「甘いお菓子」ではなく、小麦粉や豆を使った軽食全般を指す言葉だったのである。

今も中国の広東地方などでは、シューマイ、ギョーザ、まんじゅう、甘いお菓子などの軽食を「点心(ディムサム)」と呼び、お茶といっしょに楽しむ。日本の「点心」と同じ言葉が、海の向こうで、今も生きている。

点心の種類今の日本の食べ物とのつながり
羹羊羹(菓子へ)
麺類そうめん、うどん(食事へ)
饅頭饅頭、肉まん(菓子と軽食へ)

点心として伝わった食べ物は、日本で、あるものは菓子に、あるものは食事に、と別々の道を歩んでいった。

2-4. 円爾と饅頭

饅頭を日本に伝えた人物としては、二人の名前があげられる。

一人は、宋で修行し、1241年に博多へ帰国した禅僧の円爾(えんに、聖一国師)である。円爾は、博多の茶屋の主人に、酒の発酵の力を使ってふくらませる「酒饅頭」の作り方を教え、「御饅頭所」という看板を書いて与えた、という話が伝わっている。これは、のちの菓子店などに伝わる話であり、確かな記録があるわけではない。円爾は、そば・うどんの製粉の技術や、お茶の種を伝えたという話でも知られている。

もう一人が、次に紹介する林浄因である。

3. 林浄因 ― もう一人の菓祖神

3-1. 奈良にやってきた饅頭

林浄因(りんじょういん)は、中国の人で、元に留学していた禅僧龍山徳見(りゅうざんとくけん)が日本に帰国する際にともなわれて、1349年(貞和5年)に来日したとされる。林浄因は奈良に住み、饅頭をつくって売った。

中国の饅頭は、もともと肉や野菜を包んだものであった。肉を食べない禅僧のために、林浄因は、肉の代わりに、小豆を煮て甘く味つけしたあんを包んだ饅頭を考え出した、と伝えられている。これが、日本の「あんまん」「おまんじゅう」の始まりとされる。

3-2. 紅白饅頭の伝説

林浄因の家には、こんな話も伝わっている。林浄因のつくった饅頭は評判となって宮中にも献上され、林浄因は宮中に仕える女性を妻に迎えた。その結婚の祝いに、紅白の饅頭を配ったのが、お祝いの「紅白饅頭」の始まりだという。

この話は、家に伝わる話であり、確かな記録で確かめられるものではない。それでも、お祝いに紅白の饅頭を配る習慣が今も続いていることを思うと、林浄因の饅頭が日本の人々の暮らしに深くとけこんだことがよくわかる。

3-3. 林神社と塩瀬

林浄因の子孫は、のちに「塩瀬」を名のり、饅頭屋を営んだ。室町時代の終わりには、子孫の饅頭屋宗二(1498〜1581年)が、『源氏物語』の注釈書を著す学者としても知られた。今も東京の老舗の和菓子店が、林浄因の流れをくむ店として、その歴史を伝えている。

奈良市の漢國神社(かんごうじんじゃ)の境内には、林浄因を祀る林神社がある。林神社が建てられたのは1949年と、比較的新しい。毎年、林浄因の命日とされる4月19日には「饅頭まつり」が開かれ、全国の菓子業者がお参りする。

菓祖神時代由来祀る神社
田道間守伝説の時代非時香菓(橘)を持ち帰った中嶋神社(兵庫県豊岡市)など
林浄因南北朝時代(1349年来日)小豆あんの饅頭を伝えた林神社(奈良市・漢國神社の境内)

4. 茶の湯と菓子

4-1. 茶の湯の成立

室町時代、お茶は、武士や貴族の社交の場で、産地をあてる「闘茶」などとして楽しまれた。やがて、村田珠光(むらたじゅこう)が、禅の精神を取り入れた、質素で静かな「わび茶」を始めた。それを武野紹鴎(たけのじょうおう)が受け継ぎ、千利休(1522〜1591年)が大成した。

茶の湯では、お茶をいただく前に、菓子が出される。茶の湯の発展は、菓子の発展と深く結びついていた。

4-2. 利休の茶会の菓子

では、千利休の茶会では、どんな菓子が出されていたのだろうか。

利休の茶会を記録した茶会記を見ると、そこに書かれている菓子は、今の私たちが想像する華やかな和菓子とはまったく違う。栗などの木の実や果物、昆布、椎茸などの名前が見られ、ほとんどが素朴なものであった。

その中で、利休の茶会記にもっとも多く登場する菓子が「ふのやき(麩の焼き)」とされる。小麦粉を水でといて薄く焼き、味噌などを塗って、くるくると巻いたものである。甘いお菓子ではなく、香ばしい、素朴な軽食のようなものであった。

茶会の菓子内容
木の実・果物栗など
海や山のもの昆布、椎茸など
ふのやき小麦粉の生地を薄く焼き、味噌などを塗って巻いたもの

「わび」を大切にした利休の茶の湯では、菓子もまた、豪華さではなく、季節と素材を大切にする、ひかえめなものであった。

4-3. 茶の湯が和菓子を育てた

茶の湯の菓子は、まだ甘いものではなかった。しかし、茶の湯の「季節を感じる」「器や部屋とのとりあわせを考える」「亭主がお客をもてなす」という考え方は、のちの和菓子の美意識の土台となった。

16世紀の後半からは、ポルトガルとの南蛮貿易で砂糖が多く入るようになり(第12章参照)、江戸時代には、茶の湯の菓子は、砂糖を使った美しい「上菓子」へと発展していく(第13章参照)。四季の移ろいを形と色と名前で表す和菓子は、茶の湯の心から生まれたといってもよい。

4-4. 室町時代の砂糖

室町時代には、中国の明との貿易(勘合貿易)や、琉球を通じた交易で、砂糖が少しずつ日本に入ってくるようになった。それでも砂糖はたいへん貴重で、薬や、ごく特別な料理に使われる程度であった。『庭訓往来』に見える「砂糖羊羹」という呼び名も、砂糖を使うことが特別だったことを物語っている。

砂糖が菓子に本格的に使われるようになるのは、南蛮貿易の時代を経て、江戸時代になってからである。

4-5. 主菓子と干菓子

今の茶道では、菓子は大きく二つに分けられる。

種類内容主に出される場面
主菓子(おもがし)練り切り、きんとん、饅頭など、水分の多い生菓子濃茶の前
干菓子(ひがし)落雁、有平糖、煎餅など、水分の少ない菓子薄茶の前

こうした区別がはっきりするのは、砂糖を使った菓子が発達した江戸時代以降のことである。利休の時代の素朴な菓子から、季節を映す色とりどりの主菓子や干菓子へ。茶の湯の菓子は、長い時間をかけて形を変えてきた。

4-6. 京都の老舗

室町時代の後期には、京都で、のちに天皇の御所の菓子をつくる老舗の菓子店が生まれている。たとえば虎屋は、室町時代後期に京都で創業し、後陽成天皇の時代から御所の御用をつとめたとされる。宮中や茶の湯の世界と結びついた京都の菓子店が、日本の菓子の技術と美意識を磨いていった。

5. 鎌倉〜安土桃山時代の菓子の年表

年できごと
815年永忠が嵯峨天皇にお茶を差し上げる
1191年栄西が宋から帰国
1211年栄西『喫茶養生記』(最初の版)
1214年栄西が源実朝にお茶をすすめる
1241年円爾が宋から博多に帰国
1349年林浄因が龍山徳見とともに来日したとされる
南北朝〜室町時代初め『庭訓往来』に羊羹・饅頭などの点心
15世紀後半村田珠光がわび茶を始める
1498〜1581年饅頭屋宗二
16世紀武野紹鴎、千利休が茶の湯を大成
室町時代後期京都に御所の御用をつとめる菓子店が生まれる
1591年千利休が亡くなる
1949年奈良の漢國神社の境内に林神社が建てられる

伝説と史実

よく語られるお話と、確かな記録からわかることを比べてみましょう。カードをタップすると、史実がめくれます。

🔮 よく語られる話「羊羹には、昔から小豆が使われていた」
📜 史実ではもとは中国の「羊の肉の汁物」。肉を食べない禅僧が、小豆や小麦粉で肉に似せてつくり、それがのちに菓子になった。
🔮 よく語られる話「日本で初めてお茶を伝えたのは栄西」
📜 史実では815年に永忠が嵯峨天皇にお茶を差し上げた記録がある。栄西は、宋の抹茶の飲み方を伝え、お茶を飲む習慣を広めた人である。
🔮 よく語られる話「円爾が『御饅頭所』の看板を書いて、饅頭の作り方を伝えた」
📜 史実ではのちの菓子店などに伝わる話で、確かな記録はない。円爾が1241年に宋から帰国したことは確かである。
🔮 よく語られる話「紅白饅頭は、林浄因の結婚祝いから始まった」
📜 史実では林浄因の家に伝わる話で、記録では確かめられない。林浄因が1349年に来日し、奈良で饅頭をつくったことは、子孫の店と林神社の伝えで共通している。
🔮 よく語られる話「茶の湯では、昔から甘い和菓子が出されていた」
📜 史実では千利休の茶会の菓子は、栗や昆布、椎茸、味噌を塗った「ふのやき」など、素朴なものが中心だった。甘い上菓子が広まるのは江戸時代である。

製菓とのつながり

酒饅頭と薬饅頭

饅頭には、ふくらませ方の違いで、大きく二つの種類がある。酒饅頭は、米と麹からつくった酒種の酵母の力で発酵させてふくらませる。薬饅頭(上用饅頭、薯蕷饅頭など)や田舎饅頭は、ベーキングパウダーや重曹、イスパタなどの膨張剤や、山芋の泡の力でふくらませる。円爾が伝えたとされる酒饅頭は、生物の力を使う発酵の菓子であり、パンとも共通する技術である。

蒸すという技術

羊羹も饅頭も、もとは「蒸す」菓子であった。蒸し器の中の水蒸気は100℃前後で、焼くよりも低い温度で、しっとりと加熱できる。和菓子では、蒸羊羹、饅頭、ういろう、かるかん、蒸しカステラなど、蒸す技術が大切に受け継がれている。

あんの誕生

林浄因の饅頭で知られる「あん」は、もともと「餡」という字のとおり、中に詰める具(肉や野菜など)のことであった。それが、日本では小豆を煮て砂糖で甘くしたものを指すようになった。小豆のでんぷんは、細胞の中に閉じこめられていて、煮ても外に出にくい。そのため、あんはべたつかず、さらりとした口あたりになる。あんの科学は、和菓子づくりの基本である。

まとめ

815年に永忠が嵯峨天皇にお茶を差し上げた記録があり、栄西(1191年帰国)は宋の抹茶の飲み方を伝えて、お茶を飲む習慣を広めた。『喫茶養生記』(1211年、改訂1214年)でお茶の効能を説き、1214年には二日酔いの源実朝にお茶をすすめた(『吾妻鏡』)。

禅宗とともに、決まった食事の間にとる軽食「点心」が伝わった。『庭訓往来』には、羊羹などの羹や、索麺、饅頭の名が見える。羊羹は、もとは羊の肉の汁物で、禅僧が小豆や小麦粉で肉に似せてつくり、蒸羊羹として菓子になった。

饅頭は、円爾(1241年帰国)が酒饅頭を伝えたという話と、林浄因(1349年来日)が小豆あんの饅頭をつくったという話がある。林浄因は菓祖神として、奈良の漢國神社の境内にある林神社に祀られ、4月19日に饅頭まつりが開かれる。

茶の湯は、村田珠光、武野紹鴎、千利休によって大成された。利休の茶会の菓子は、栗や昆布、椎茸、「ふのやき」など素朴なものだったが、季節ともてなしを大切にする茶の湯の心は、のちの和菓子の美意識の土台となった。

次章では、16世紀にポルトガルから伝わった、カステラ、金平糖、ボーロなどの「南蛮菓子」の物語を訪ねる。日本に、卵と砂糖をたっぷり使う菓子がやってくる。

※ 本ページは『sweets note. 図書館』のお菓子の歴史 第11章です。製菓衛生師養成課程の科目「社会」のうち、菓子の歴史と文化にあたる内容を扱っています。

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