お菓子の歴史 第三部 日本の菓子の物語
菓祖神と唐菓子
時代:縄文時代〜平安時代
はじめに
ここからは第三部、日本の菓子の物語である。
今、私たちが「お菓子」と呼んでいるものは、ケーキ、チョコレート、せんべい、まんじゅうと、とても幅が広い。けれども、日本で「菓子」という言葉が最初に指していたのは、そのどれでもなかった。それは、木の実や果物であった。
砂糖も、バターも、オーブンもない時代、人々にとっての甘いものとは、山でとれる栗や柿、野いちごのような自然の恵みであった。そこへ、遠い中国の唐から、米や小麦の粉をこね、油で揚げた不思議な食べ物が伝わってくる。人々はそれを「唐菓子(からくだもの)」と呼んだ。
そして日本には、お菓子の神様、菓祖神がいる。その一人は、天皇の命を受けて、はるか遠い国まで「不思議な果物」を探しに行った人物である。この章では、日本のお菓子の、いちばん最初の物語を訪ねる。
1. 「菓子」はもともと果物だった
1-1. くだものと菓子
「菓子」の「菓」という字には、「木の実」という意味がある。日本語の「くだもの」も、「木(く)の物」がもとであるとされる。古代の日本では、「菓子」も「くだもの」も、木の実や果物のことであった。
17世紀のはじめ(1603年)に、イエズス会の宣教師たちがつくった日本語とポルトガル語の辞書『日葡辞書』でも、「Quaxi(くゎし)」は「食後に出される果物」と説明されている。今でも、果物のことを「水菓子」と呼ぶことがあるのは、その名残である。
| 時代 | 「菓子」が指していたもの |
|---|---|
| 古代 | 木の実・果物 |
| 奈良〜平安時代 | 木の実・果物に加えて、唐菓子などの加工した食べ物 |
| 鎌倉〜室町時代 | 点心(禅宗とともに伝わった軽食)、茶の湯の菓子 |
| 江戸時代 | 砂糖を使った菓子が広まり、果物は「水菓子」と呼び分けられるように |
1-2. 縄文時代の「クッキー」
縄文時代の遺跡からは、どんぐりや栗などの木の実の粉をこね、平たく焼いたような食べ物が、炭になった状態で見つかっている。その形から「縄文クッキー」と呼ばれることがある。
木の実を砕き、あく抜きをして、丸めたり焼いたりするのは、命をつなぐための大切な食べ物であった。全国和菓子協会は、こうした木の実を丸めたものが、のちの団子の始まりではないかと紹介している。ただし、縄文クッキーに何がふくまれていたかについては、まだはっきりしないことも多い。
1-3. 飴と餅
『日本書紀』の神武天皇の物語には、「飴(たがね)」をつくる話が出てくる。神話の時代の記事なので、そのまま史実とはいえないが、日本で古くから「飴」が知られていたことをうかがわせる。古代の飴は、米などのでんぷんを麦芽(もやし)の力で糖に変えた、水飴のようなものだったと考えられている。
餅も、日本でもっとも古い加工食品のひとつである。平安時代の辞書『和名類聚抄』(934年ごろ)には、「毛知比(もちひ)」という読み方で登場する。米は神様にささげる大切な作物であり、それをついて固めた餅は、特別な日の食べ物、神聖な食べ物とされてきた。
2. 菓祖神 ― 田道間守の物語
2-1. 非時香菓を探して
日本のお菓子の神様、菓祖神として祀られている人物の一人が、田道間守(たじまもり)である。その物語は、『古事記』と『日本書紀』に記されている。
垂仁天皇の時代、田道間守は、天皇の命を受けて、海のかなたにあるという「常世の国(とこよのくに)」へ、「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」を探しに出かけた。非時香菓とは、「季節に関係なく、いつも香りを放つ木の実」という意味で、不老不死の果物とも考えられていた。
『日本書紀』によれば、田道間守は10年の歳月をかけて、ようやく非時香菓を手に入れて帰ってきた。ところが、そのとき天皇はすでに亡くなっていた。田道間守は、天皇の陵(お墓)の前で、泣き叫びながら息絶えたという。
この非時香菓は、今の橘(たちばな)のことだとされている。橘は、日本に古くから自生するかんきつ類で、京都御所の紫宸殿の前に植えられた「右近の橘」でも知られている。
2-2. 菓子の神様を祀る神社
果物が「菓子」と呼ばれていた時代の物語であることから、田道間守は「お菓子の神様」として祀られるようになった。
| 神社 | 場所 | 内容 |
|---|---|---|
| 中嶋神社 | 兵庫県豊岡市 | 田道間守を祀る。毎年4月に菓子祭が行われ、菓子業者がお参りする |
| 橘本神社 | 和歌山県海南市 | 田道間守が持ち帰った橘を最初に植えた地と伝えられる |
全国菓子工業組合連合会は、1981年に、毎月15日を「お菓子の日」と定めた。この日付は、二つの神社の例祭が4月15日だったことにちなむとされる。
なお、日本にはもう一人の菓祖神がいる。南北朝時代に中国から来日し、饅頭を伝えたとされる林浄因である。奈良の林神社に祀られている。林浄因の物語は、次章で詳しく学ぶ(第11章参照)。
3. 唐菓子 ― 唐から来た不思議な食べ物
3-1. 遣唐使と唐の文化
7世紀から9世紀にかけて、日本は中国の唐に遣唐使を送り、政治のしくみ、仏教、文字、暦、そして食文化を学んだ。遣唐使は、630年から894年に廃止されるまで、たびたび海を渡った。
こうして唐から伝わったのが、唐菓子(からくだもの、とうがし)である。唐菓子は、米、小麦、大豆、小豆などの穀物の粉を水でこね、甘葛煎や塩で味をつけ、いろいろな形にして、ごま油で揚げたり、ゆでたり、焼いたりしたものであった。中には、丁子(クローブ)や桂心(シナモン)などの香りの強い薬を加えたものもあった。
それまでの「菓子」は、木の実や果物そのものだった。粉をこね、形をつくり、油で揚げる唐菓子は、日本人にとって、まったく新しい「加工された菓子」であった。
3-2. 八種唐菓子
平安時代の書物『口遊(くちずさみ)』(970年)などには、「八種唐菓子(やくさのからくだもの)」として、次の八つの名前があげられている。
| 名前 | 読み | 伝えられる形・特徴 |
|---|---|---|
| 梅枝 | ばいし | 梅の枝の形に揚げたもの |
| 桃枝 | とうし | 桃の枝の形に揚げたもの |
| 餲餬 | かっこ | 虫の形とも伝えられる揚げ菓子 |
| 桂心 | けいしん | 桂心(シナモン)の香りをつけたもの |
| 黏臍 | てんせい | へその形にくぼませたもの |
| 饆饠 | ひちら | 平たく焼いた、せんべいのようなもの |
| 鎚子 | ついし | 丸めた形とも伝えられる |
| 団喜 | だんき | 歓喜団とも。丸く包んで揚げたもの |
形や作り方は、のちの書物の説明や絵から推定されたもので、はっきりしないものも多い。実際、鎌倉時代の終わりから南北朝時代のころには、すでに「名前だけが残り、形はわからない」と記されていた。
唐菓子には、八種のほかにも、餢飳(ぶと)、索餅(さくべい、むぎなわ)、煎餅(せんべい、いりもちひ)、糫餅(まがり)などがあった。
3-3. 今に残る唐菓子
唐菓子は、日常の食べ物というより、神様や仏様へのお供え、宮中の儀式の食べ物であった。そのため、今でも一部の神社では、唐菓子が神饌(神様へのお供え)として受け継がれている。
| 今に残る唐菓子 | 内容 |
|---|---|
| 春日大社(奈良)の神饌 | 梅枝、餢飳、糫餅などの唐菓子が供えられる |
| 下鴨神社(京都)の神饌 | 唐菓子が今も供えられる |
| 清浄歓喜団(京都) | 八坂神社の門前の菓子店・亀屋清永がつくる。団喜の流れをくむ、ごま油で揚げた菓子 |
清浄歓喜団は、生地で、香りのよい香料を練りこんだあんを、巾着のような形に包み、ごま油で揚げたものである。もとは仏教の儀式のための菓子であり、1000年以上前の唐菓子の姿を、今に伝える貴重な菓子である。
3-4. 唐菓子から和菓子へ
唐菓子そのものの多くは姿を消したが、その技術や考え方は、のちの日本の菓子に受け継がれた。粉をこねて形をつくる技術は団子や餅菓子に、平たく焼く技術は煎餅に、揚げる技術はかりんとうなどに通じるといわれる。索餅は、小麦粉をこねて縄のようにねじったもので、そうめんのルーツのひとつとも考えられている。宮中では、七夕に索餅を食べる習わしがあったとされる。
4. 甘葛煎 ― 平安時代の甘味料
4-1. ツタの樹液を煮詰めた甘み
砂糖がほとんど手に入らなかった古代の日本で、もっとも上等な甘味料とされたのが、甘葛煎(あまづらせん)である。冬、ツタなどのつる草の幹を切り、にじみ出てくる樹液を集めて煮詰め、とろりとしたシロップにしたものである。
奈良時代の長屋王の屋敷の跡から出土した木簡にも、甘葛煎の名前が見られる。甘葛煎は、地方から朝廷へ納められる貴重な品であった。
4-2. 1gの重み
近年、甘葛煎を再現する実験が行われている。その結果、ツタ約3kgから集められた樹液は、わずか10〜20ccほどであったという。そこから煮詰めてできる甘葛煎は、さらにほんの少しである。
一杯のかき氷にかける甘葛煎のために、どれほどのツタと手間が必要だったか。平安時代の甘みは、まさに「1滴、1gの重み」を持つ、ぜいたく品であった。
4-3. 清少納言のかき氷
平安時代の中ごろ、清少納言は『枕草子』の「あてなるもの(上品なもの)」の段で、「削り氷にあまづら入れて、新しき金鋺に入れたる」と書いている。削った氷に甘葛煎をかけ、新しい金属のおわんに入れたもの。今でいうかき氷である。
夏に氷を食べられたのは、冬の氷を山の氷室に保存しておける、ごく限られた身分の人だけであった。氷も甘葛煎も、どちらも貴重品である。清少納言のかき氷は、平安時代の貴族の、最高のぜいたくのひとつであった。
4-4. 『源氏物語』の椿餅
紫式部の『源氏物語』の「若菜」の巻には、蹴鞠のあとの若い貴族たちに、「椿餅(つばいもちい)」がふるまわれる場面がある。のちの注釈書によれば、椿餅は、餅の粉に甘葛煎をかけて丸め、椿の葉で包んだものとされる。
外国から伝わった菓子の技術が、日本の植物や季節感と結びつき、日本らしい菓子へと変わっていく。椿餅は、その早い例のひとつとされ、今も和菓子店で、冬から春の菓子としてつくられている。
5. 砂糖の伝来
5-1. 鑑真と砂糖
日本に砂糖を伝えたのは、唐の高僧鑑真だという話がよく知られている。鑑真は、日本へ渡ろうとして何度も失敗し、6回目の渡航で、753年にようやく日本にたどり着いた。
記録によれば、鑑真が2回目の渡航のために準備した積荷(743年)の中には、砂糖(石蜜・蔗糖)がふくまれていた。しかし、この2回目の渡航は失敗している。実際に日本にたどり着いた753年の船に、砂糖が積まれていたかどうかは、記録からはわからない。
5-2. 薬としての砂糖
日本で砂糖の存在が確実にわかる記録は、756年、東大寺の正倉院に納められた品物の目録『種々薬帳』である。ここに「蔗糖」の名前が見られる。
注目したいのは、この砂糖が「薬」として納められていたことである。奈良時代の砂糖は、お菓子の材料ではなく、たいへん貴重な薬であった。砂糖が菓子の材料として広く使われるようになるのは、ずっとあとの、室町時代から江戸時代にかけてのことである(第11章・第13章参照)。
6. 平安京の菓子と市
6-1. 煎餅と空海
煎餅は、平安時代のはじめに、唐から帰国した空海(弘法大師)が伝えたという話がある。しかし、奈良時代の正倉院の文書には、すでに「煎餅(いりもちひ)」の名前が見られる。空海が伝えたという話は、伝承と考えるのがよい。なお、古代の煎餅は、今の米のせんべいとは違い、小麦粉などの生地を油で焼いたものであったとされる。
6-2. 市の菓子屋
平安京には、東西に市がおかれていた。平安時代の法令集『延喜式』などから、市には、索餅、飴、菓子などを売る店があったことがわかっている。これが、日本で最初の「菓子屋」とされることがある。
貴族たちの儀式の菓子だった唐菓子や餅が、市で売り買いされるようになる。お菓子が少しずつ、人々の暮らしの中へ入っていく、その最初の一歩であった。
7. 古代〜平安時代の菓子の年表
| 年代 | できごと |
|---|---|
| 縄文時代 | 木の実の粉をこねて焼いた「縄文クッキー」 |
| 『日本書紀』の神話 | 神武天皇の物語に「飴(たがね)」 |
| 垂仁天皇の時代(伝承) | 田道間守が非時香菓(橘)を持ち帰る |
| 630年 | 第1回の遣唐使 |
| 743年 | 鑑真の2回目の渡航の積荷に砂糖(渡航は失敗) |
| 753年 | 鑑真が日本に到着 |
| 756年 | 正倉院『種々薬帳』に「蔗糖」 |
| 奈良時代 | 長屋王邸の木簡に甘葛煎、正倉院文書に「煎餅」 |
| 894年 | 遣唐使が廃止される |
| 934年ごろ | 『和名類聚抄』に「毛知比(もちひ)」 |
| 970年 | 『口遊』に八種唐菓子 |
| 10世紀末〜11世紀初め | 『枕草子』の「削り氷にあまづら」、『源氏物語』の椿餅 |
| 1981年 | 毎月15日が「お菓子の日」に |
伝説と史実
よく語られるお話と、確かな記録からわかることを比べてみましょう。カードをタップすると、史実がめくれます。
🔮 よく語られる話「日本の菓子の始まりは、唐から伝わった唐菓子である」
🔮 よく語られる話「田道間守は、お菓子をつくった人だから菓子の神様になった」
🔮 よく語られる話「鑑真が日本に砂糖を伝えた」
🔮 よく語られる話「煎餅は、空海が唐から伝えた」
製菓とのつながり
麦芽の飴と水飴
古代の飴は、米などのでんぷんを、麦芽にふくまれる酵素(アミラーゼ)で分解して、麦芽糖などの糖に変えてつくった。今の水飴も、でんぷんを酵素や酸で分解してつくられている。水飴は、砂糖が結晶になるのを防ぎ、しっとり感を保つ働きがあり、羊羹、あめ、焼き菓子など、さまざまな菓子に使われている。
揚げる・焼く・蒸すという技術
唐菓子の「粉をこねて、形をつくり、加熱する」という考え方は、今の和菓子の基本である。揚げる技術はかりんとうや揚げまんじゅうに、焼く技術は煎餅や焼き菓子に、蒸す・ゆでる技術は団子や餅菓子に受け継がれている。製菓衛生師養成課程の和菓子の実習でも、この「生地をつくり、成形し、加熱する」流れを学ぶ。
季節と植物の葉
椿餅の椿の葉のように、和菓子には、桜の葉(桜餅)、柏の葉(柏餅)、笹の葉(ちまき)など、植物の葉を使う菓子が多い。葉は、香りや季節感を添えるだけでなく、乾燥を防いだり、手に持ちやすくしたりする役割もある。平安時代の椿餅は、その早い例である。
まとめ
古代の日本で「菓子」「くだもの」は、木の実や果物のことであった。今も果物を「水菓子」と呼ぶのはその名残である。縄文時代には木の実の粉を焼いた「縄文クッキー」があり、古くから飴や餅も食べられていた。
菓祖神の一人、田道間守は、垂仁天皇の命で常世の国へ「非時香菓」(橘)を探しに行き、10年かけて持ち帰ったが、天皇はすでに亡くなっていたと伝えられる。兵庫県豊岡市の中嶋神社などに祀られ、毎月15日は「お菓子の日」とされている。もう一人の菓祖神は、饅頭の林浄因である。
遣唐使の時代、唐から唐菓子が伝わった。穀物の粉をこね、甘葛煎や塩で味をつけ、ごま油で揚げるなどした加工菓子で、八種唐菓子(梅枝・桃枝・餲餬・桂心・黏臍・饆饠・鎚子・団喜)が知られる。今も春日大社などの神饌や、京都の清浄歓喜団に、その姿が受け継がれている。
平安時代の最高の甘味料は、ツタの樹液を煮詰めた甘葛煎であった。『枕草子』の「削り氷にあまづら」や、『源氏物語』の椿餅に登場する。砂糖は、鑑真の渡航の積荷にあったとされるが、確実な記録は756年の正倉院『種々薬帳』の「蔗糖」で、薬として扱われた。
次章では、鎌倉・室町時代に、禅宗とともに伝わった「点心」と、茶の湯の菓子の物語を訪ねる。羊羹や饅頭のルーツと、もう一人の菓祖神・林浄因の物語である。
※ 本ページは『sweets note. 図書館』のお菓子の歴史 第10章です。製菓衛生師養成課程の科目「社会」のうち、菓子の歴史と文化にあたる内容を扱っています。

