お菓子の歴史 第13章:江戸の菓子

第13章

お菓子の歴史 第三部 日本の菓子の物語

江戸の菓子

時代:江戸時代(17世紀〜19世紀半ば)

はじめに

江戸時代は、約260年にわたって大きな戦がなかった、平和な時代である。平和な世の中では、人々の暮らしにゆとりが生まれ、食べることを楽しむ文化が育つ。お菓子の世界も、この時代に大きく花開いた。

それを支えたのが、砂糖である。江戸時代のはじめ、砂糖はまだ外国から運ばれてくる貴重品だった。しかし、幕府や各地の藩がサトウキビの栽培を進め、18世紀の終わりには、日本でも上質な白い砂糖がつくれるようになった。

京都では、茶の湯と宮中の文化の中で、季節を映す美しい「上菓子」が生まれた。江戸の町では、桜餅や大福、きんつばのような、庶民が気軽に楽しむ菓子が次々と登場した。そして、寒天の発見によって、今のような「練羊羹」が誕生する。

今、私たちが「和菓子」と聞いて思い浮かべるものの多くは、この江戸時代に形づくられた。この章では、和菓子の黄金時代の物語を訪ねる。

1. 砂糖の国産化

1-1. 砂糖は輸入品だった

江戸時代のはじめ、砂糖のほとんどは、長崎に来るオランダ船や中国船によって、外国から運ばれてきた。鎖国のもとでも、砂糖は大切な輸入品であり、その支払いのために、日本の金や銀、銅がたくさん海外へ流れ出ていった。

江戸時代のはじめごろ、九州の南の奄美や琉球では、すでにサトウキビから黒砂糖がつくられ、薩摩藩の大切な財源となっていた。

1-2. 吉宗の奨励

8代将軍徳川吉宗は、砂糖の輸入で金銀が流れ出るのをおさえるため、サトウキビの栽培と砂糖づくりを奨励した。これをきっかけに、各地でサトウキビの栽培や、砂糖づくりの研究が進められるようになった。

1-3. 讃岐の和三盆

なかでも有名なのが、讃岐(香川県)と阿波(徳島県)で生まれた和三盆である。

讃岐の高松藩では、藩の命を受けた医師の向山周慶(さきやましゅうけい)が、サトウキビの栽培と白い砂糖づくりに取り組み、1799年に白い砂糖づくりに成功したとされる。こうして生まれたのが、讃岐の和三盆である。

和三盆は、「竹糖」と呼ばれる細いサトウキビからとった汁を煮詰め、それを布に包んで重しをかけて蜜をしぼり、水を加えて「研ぐ」(もむ)作業をくり返して、きめ細かい、上品な甘さの砂糖に仕上げる。蜜をしぼる方法は、日本酒をしぼる技術を応用したものとされる。

砂糖内容
黒砂糖奄美・琉球などで、サトウキビの汁をそのまま煮詰めたもの。風味が濃い
和三盆讃岐・阿波で、竹糖の汁から蜜をしぼり、研いで仕上げたもの。きめ細かく、口どけがよい
輸入の白砂糖オランダ船・中国船が長崎に運んだもの

阿波の和三盆には、サトウキビの苗を杖の中に隠して薩摩から持ち帰ったという話も伝わっているが、これは伝説と考えられている。和三盆は今も、香川県と徳島県の一部で、江戸時代とほとんど変わらない方法でつくられ、落雁や干菓子などの高級な和菓子に使われている。

2. 京菓子と上菓子

2-1. 上菓子とは

江戸時代、京都では、宮中や公家、茶の湯の世界と結びついて、白い砂糖をぜいたくに使った美しい菓子がつくられるようになった。これを「上菓子」という。上菓子をつくる菓子屋は「上菓子屋」と呼ばれ、京都では、上菓子屋の組合(仲間)がつくられて、高価な白砂糖を使える店の数が限られていた。

一方、黒砂糖などを使った、庶民向けの安い菓子は「駄菓子」や「雑菓子」と呼ばれた。

上菓子駄菓子
白砂糖を使う黒砂糖、水飴などを使う
宮中・公家・武家・茶の湯の菓子庶民の菓子
季節を映す形、色、菓銘素朴で安い
練り切り、きんとん、落雁など飴、おこし、かりんとう、駄菓子屋の菓子など

2-2. 菓銘 ― お菓子に名前をつける

上菓子の大きな特徴は、ひとつひとつの菓子に、季節や和歌、古典文学にちなんだ美しい名前がつけられていることである。これを「菓銘」という。菓銘がつけられるようになったのは、江戸時代のはじめ、慶長から寛永のころからとされる。

たとえば、同じ白い練り切りでも、春には「初桜」、冬には「初雪」と名前をつけることで、食べる人は、菓子の形と色と名前から季節を感じ、和歌の世界を思い浮かべる。お菓子を「目で見て、名前を聞いて、口で味わう」。これが、茶の湯の心から生まれた上菓子の楽しみ方である。

2-3. 菓子の目録と専門書

江戸時代には、菓子屋が自分の店の菓子を紹介する目録や、菓子の見本帳がつくられるようになった。1683年には、江戸の京菓子の店・桔梗屋が、172種類もの菓子を載せた目録をつくっている。

1718年には、日本で最初の菓子の専門書とされる『御前菓子秘伝抄』が出版された。ここには、カステラ、ボーロ、羊羹、饅頭など、100種類あまりの菓子の作り方が記されている。お菓子づくりの知識が、店の秘伝から、本を通じて広く知られるものへと変わり始めたのである。

2-4. 茶人と菓子

江戸時代の後期には、茶の湯を愛する大名が、菓子の発展に大きな役割を果たした。出雲国松江藩の藩主松平治郷(不昧)は、大名茶人として知られ、松江では、不昧が好んだとされる菓子が、今も銘菓として伝えられている。松江が、京都、金沢と並んで「和菓子の町」と呼ばれるのは、こうした茶の湯の文化が根づいているからである。

3. 寒天と練羊羹

3-1. 寒天の発見

寒天は、テングサなどの海藻を煮てつくった「ところてん」を、凍らせては乾かしてつくる食品である。

江戸時代の前期、京都の伏見で旅館を営んでいた美濃屋太郎左衛門が、冬の寒い日に、残ったところてんを外に捨てておいたところ、夜に凍り、昼にとけて、乾いた白いかたまりになっていた。これを煮とかして固めてみると、もとのところてんよりも、くさみのない、すきとおったものができた。これが寒天の始まりと伝えられている。時期は1650年代の後半とする説が有力である。

さらに、この食べ物を味わった黄檗宗の僧隠元が、「寒い空」を意味する「寒天」と名づけたという話もあるが、これも伝承である。

3-2. 練羊羹の誕生

第11章で学んだように、室町時代の羊羹は、小豆と小麦粉などを蒸してつくる「蒸羊羹」であった。そこに寒天を使うことで生まれたのが、練羊羹である。

練羊羹は、寒天をとかした液に、砂糖とあんを加えて、よく練りながら煮詰めて固めたものである。水分が少なく、砂糖が多いため、日持ちがよい。

練羊羹がいつ生まれたかについては、いくつかの話が伝わっている。

練羊羹の始まりの説内容
伏見の駿河屋の家伝1658年に練羊羹をつくったと伝えられる
江戸の喜太郎寛政年間(1789〜1801年)に江戸で評判になったとされる
江戸の紅谷志津摩享和年間(1801〜1804年)に始めたとする記録がある

しかし、1773年の大名の日記には、すでに「ねりやうかん」という言葉が見られる。練羊羹は、18世紀の後半には知られるようになり、18世紀の終わりから19世紀のはじめにかけて、江戸で大流行したと考えられている。

3-3. 旅と名物の菓子

練羊羹は日持ちがよいことから、各地の名物や、旅のおみやげとしても広まった。参勤交代で大名や武士が江戸と国元を行き来したことも、各地の名物菓子が全国に知られるきっかけとなった。

4. 江戸の町の菓子

4-1. 長命寺の桜餅

桜餅は、江戸の向島にある長命寺の門番だった山本新六が、1717年に、隅田川の土手の桜の落ち葉を塩漬けにして、餅を包んで売り出したのが始まりとされる。

この桜餅は大評判となった。江戸時代の随筆『兎園小説』によれば、1824年の1年間に使われた桜の葉は、なんと77万5千枚にのぼったという。1個に2枚の葉を使うとすると、およそ38万個もの桜餅が売れた計算になる。

桜餅特徴
関東風(長命寺)小麦粉の生地を薄く焼いて、あんを巻く
関西風(道明寺)もち米を蒸して乾かした道明寺粉で、あんを包む

4-2. 大福

大福のもとは、塩味のあんを餅で包んだ、大きくておなかにたまる「腹太餅」だったとされる。江戸時代の中ごろ(明和年間、1764〜1772年ごろ)、小石川に住む女性が、これを小さくして、砂糖を入れたあんで包み、「大福餅」と名づけて売り出したと伝えられている。ただし、その女性の名前や年は、資料によって違いがあり、はっきりしない。

「腹太」が「大腹」になり、縁起のよい「大福」になったという名前の変化も、江戸の人々らしい言葉遊びである。

4-3. きんつば

きんつばは、もとは京都で、米の粉の生地であんを包んで焼いた「銀つば」と呼ばれる菓子であった。刀のつば(手を守る丸い金具)の形に似ていたことから、その名がついた。これが江戸に伝わると、小麦粉の生地になり、「銀より金のほうがよい」と、「金つば」と呼ばれるようになった。

4-4. 団子と四文銭

江戸の町では、みたらし団子やあん団子など、串にさした団子が茶店などで売られていた。もともと団子は、1串に5つさすことが多かったが、1768年に「四文銭」という新しいお金が発行されると、1串4つで四文という売り方が広まり、4つの団子が増えた、という説がある。

お金の仕組みが、お菓子の形を変えたのかもしれない。江戸の町の菓子は、人々の暮らしや経済と、深く結びついていた。

4-5. 煎餅とおこし

今のような、うるち米でつくる塩せんべいやしょうゆせんべいが広まったのも、江戸時代のことである。とくに関東では、江戸時代にしょうゆの生産がさかんになったことで、焼いた米のせんべいにしょうゆを塗る、香ばしいせんべいが親しまれるようになった。埼玉県の草加せんべいには、街道の茶店の「おせん」という女性が考えた、という話が伝わるが、これは伝説である。

おこしは、米や粟を煎って、水飴や砂糖で固めた菓子である。「粔籹(おこしごめ)」の名は平安時代の書物にも見え、古い歴史を持つ。江戸時代には、大坂の「岩おこし」や江戸の「雷おこし」などが名物となった。

4-6. 飴売りと駄菓子

江戸の町では、飴を売り歩く飴売りが人気であった。派手な衣装を着て、歌い、踊り、太鼓をたたきながら子どもたちを集める飴売りは、江戸の町の名物だった。飴で動物などの形をつくる「飴細工」も、子どもたちの目を楽しませた。

また、黒砂糖や水飴を使った安い菓子は、子どもでも買える「一文菓子」として親しまれ、のちの駄菓子屋の文化へとつながっていった。

江戸の菓子内容
桜餅1717年、長命寺の山本新六
大福明和年間ごろ、塩あんの腹太餅から
きんつば京都の銀つばが、江戸で金つばに
練羊羹18世紀後半から江戸で大流行
団子1串4つが広まる(四文銭の説)
せんべい・おこししょうゆせんべい、岩おこし、雷おこし
飴・駄菓子飴売り、飴細工、一文菓子

5. 江戸時代の菓子の年表

年できごと
慶長〜寛永年間菓子に菓銘がつけられるようになる
1650年代後半伏見の美濃屋太郎左衛門が寒天を見つけたとされる
1658年伏見の駿河屋で練羊羹がつくられたと伝わる(家伝)
1683年江戸の桔梗屋が172種の菓子目録をつくる
1716〜1745年徳川吉宗の時代。サトウキビの栽培を奨励
1717年長命寺の桜餅が売り出される
1718年『御前菓子秘伝抄』が出版される
1764〜1772年ごろ大福餅が売り出されたと伝わる
1768年四文銭が発行される
1773年大名の日記に「ねりやうかん」
1789〜1804年江戸で練羊羹が大流行する
1799年讃岐の向山周慶が白い砂糖づくりに成功したとされる
1824年長命寺の桜餅に桜の葉77万5千枚(『兎園小説』)

伝説と史実

よく語られるお話と、確かな記録からわかることを比べてみましょう。カードをタップすると、史実がめくれます。

🔮 よく語られる話「練羊羹は、1807年に江戸の喜太郎が考え出した」
📜 史実では喜太郎や紅谷志津摩の話は寛政〜享和年間(1789〜1804年)のこと。しかも、それより前の1773年の大名の日記に、すでに「ねりやうかん」という言葉がある。
🔮 よく語られる話「寒天は、隠元禅師が名づけた」
📜 史実では伏見の美濃屋太郎左衛門が見つけ、隠元が名づけたという話は、伝承である。確かな記録で確かめられるわけではない。
🔮 よく語られる話「阿波の和三盆は、薩摩からサトウキビを杖に隠して持ち帰ったことから始まった」
📜 史実ではよく知られた話だが、伝説と考えられている。讃岐では、高松藩の向山周慶が1799年に白い砂糖づくりに成功したとされる。
🔮 よく語られる話「大福は、1771年に、お玉という女性が考えた」
📜 史実では明和年間に小石川の女性が売り出したと伝わるが、年(1771年か1772年か)も名前(お玉かおたよか)も、資料によって違う。
🔮 よく語られる話「江戸時代、菓子と水菓子(果物)は、1683年の幕府の記録で正式に区別された」
📜 史実ではそうした幕府の記録は確認できない。1683年は、江戸の桔梗屋が172種の菓子目録をつくった年である。

製菓とのつながり

寒天の性質

寒天は、テングサなどの紅藻類からとれるアガロースなどの多糖類で、90℃以上の熱でとけ、約30〜40℃で固まる。一度固まると、室温ではとけない。ゼラチン(動物性のたんぱく質で、体温程度でとける)と比べると、固まる温度もとける温度も高いのが特徴である。そのため、寒天でつくった羊羹は、常温で持ち運ぶことができる。寒天は、食物繊維が多い食品としても知られている。

練羊羹の日持ち

練羊羹は、砂糖をたくさん使い、水分を少なくなるまで練り上げてつくる。砂糖は水と結びつき、微生物が使える水(自由水)を減らす。この、微生物が使える水の割合を表すのが「水分活性」である。練羊羹は水分活性が低いため、微生物が増えにくく、日持ちがよい。昔の人は、科学の言葉を知らなくても、経験から砂糖の保存の力を使いこなしていたのである。

和三盆の口どけ

和三盆は、粒子がとても細かく、口に入れるとすっととけるのが特徴である。そのため、型に入れて固める干菓子(落雁など)に最適である。少し湿り気を加えた和三盆を木型に押し込み、型から抜いて乾燥させる。干菓子の繊細な口どけは、和三盆の粒子の細かさから生まれる。

まとめ

江戸時代のはじめ、砂糖はオランダ船や中国船が運ぶ輸入品で、奄美・琉球では黒砂糖がつくられていた。8代将軍徳川吉宗はサトウキビの栽培を奨励し、讃岐では向山周慶が1799年に白い砂糖づくりに成功したとされ、和三盆が生まれた。

京都では、宮中や茶の湯と結びついて、白砂糖を使い、季節を映す形と菓銘を持つ「上菓子」が発達した。1683年には江戸の桔梗屋が172種の菓子目録をつくり、1718年には最初の菓子専門書とされる『御前菓子秘伝抄』が出版された。

伏見の美濃屋太郎左衛門が見つけたと伝わる寒天によって、練羊羹が生まれた。1773年の日記に「ねりやうかん」が見え、寛政〜享和年間に江戸で大流行した。

江戸の町では、長命寺の桜餅(1717年、1824年に桜の葉77万5千枚)、大福(明和年間ごろ)、きんつば(京都の銀つばから)などが生まれ、飴売りや一文菓子が子どもたちに親しまれた。

次章では、明治時代の文明開化とともに日本に入ってきた、洋菓子とパンの物語を訪ねる。あんぱん、ビスケット、シュークリーム。和と洋が出会う時代である。

※ 本ページは『sweets note. 図書館』のお菓子の歴史 第13章です。製菓衛生師養成課程の科目「社会」のうち、菓子の歴史と文化にあたる内容を扱っています。

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