お菓子の歴史 第二部 ヨーロッパの菓子の物語
大航海時代と砂糖・カカオ
時代:約5400年前〜19世紀
はじめに
15世紀の終わり、ヨーロッパの国々は、帆船で大海原へこぎ出していった。香辛料を求めてアジアへの航路を探し、アフリカの沿岸をめぐり、大西洋を越えてアメリカ大陸にたどりついた。この時代を大航海時代という。
大航海時代は、お菓子の歴史を大きく変えた。一つは、アメリカ大陸からもたらされたカカオ、つまりチョコレートとの出会いである。メキシコや中米の人々が何千年も大切にしてきた「神々の飲み物」は、海を渡ってヨーロッパの宮廷に届き、やがて世界中で愛されるお菓子となった。
もう一つは、砂糖の大量生産である。第1章で学んだように、中世まで砂糖は王侯貴族しか手にできない宝物であった。ところが、カリブ海やブラジルの広大なサトウキビ畑で砂糖が大量につくられるようになると、砂糖はしだいに安くなり、ふつうの人々の食卓にまで届くようになった。
しかし、その甘さの裏には、アフリカから連れてこられた何百万人もの人々の、奴隷としての過酷な労働があった。本章では、カカオの長い歴史と、チョコレートがヨーロッパに広まるまでの道のり、そして、新大陸の砂糖と奴隷貿易の歴史をたどる。甘いものの歴史の、光と影の両方を見つめてほしい。
1. カカオという植物
1-1. 「神々の食べもの」
カカオは、中南米の熱帯雨林に育つ常緑の木である。幹や太い枝に直接、ラグビーボールのような形の実(カカオポッド)をつける。実の中には、白い果肉に包まれた種が30〜50粒ほど入っていて、この種がカカオ豆である。
カカオ豆を発酵させ、乾燥させ、焙煎してすりつぶすと、チョコレートやココアの原料になる。
カカオの学名は「テオブロマ・カカオ」(*Theobroma cacao*)という。1753年、スウェーデンの植物学者リンネが名づけたもので、「テオブロマ」は、ギリシャ語で「神々の食べもの」を意味する。
1-2. 最古のカカオは南米で
カカオがいつ、どこで利用され始めたのかは、長い間、なぞであった。2018年に発表された研究で、その答えの一つが見つかった。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 場所 | 南米エクアドル南東部、サンタ・アナ=ラ・フロリダ遺跡(マヨ・チンチペ文化) |
| 年代 | 約5450〜5300年前 |
| 証拠 | 土器のこげつきに残ったカカオのデンプン粒、カカオにふくまれる成分テオブロミン、カカオの古代のDNA |
| わかったこと | 南米のアマゾン川の上流域で、カカオが栽培・利用されていた |
それまでは、カカオの利用は中米(メキシコや中央アメリカ)で始まったと考えられていた。この発見によって、カカオの歴史は南米から始まった可能性が高くなった。ただし、このころの人々が、カカオを今のような飲み物にしていたかどうかまではわかっていない。
2. メソアメリカのカカオ
2-1. 果肉の酒から、種の飲み物へ
メキシコから中米にかけての地域は、メソアメリカとよばれ、オルメカ、マヤ、アステカなどの文明が栄えた。この地域では、古くからカカオが利用されていた。
| 遺跡・文明 | 年代 | わかっていること |
|---|---|---|
| パソ・デ・ラ・アマダ遺跡(メキシコ南部) | 紀元前1900〜1500年 | 土器からカカオの成分が見つかっている |
| プエルト・エスコンディード遺跡(ホンジュラス) | 紀元前1400〜1100年ごろ | カカオの飲み物の痕跡。初めは、甘い果肉を発酵させた酒だった可能性がある |
| マヤ文明 | 紀元前600年ごろには | カカオを飲んでいた。儀式、宴会、お墓への供え物、薬として使われた |
| アステカ文明 | 14〜16世紀 | カカオは王や貴族、戦士の飲み物。貢ぎ物やお金としても使われた |
カカオの白い果肉は甘酸っぱく、発酵させると酒になる。最初はこの果肉が目当てで、のちに種(カカオ豆)を使った飲み物が生まれたのかもしれない、と考えられている。
2-2. アステカのカカオの飲み物
アステカの人々は、焙煎したカカオ豆をすりつぶし、水にとかして、トウモロコシの粉や、トウガラシ、バニラ、花などの香りを加えて飲んだ。飲み物は、高いところから器に注いで、表面に泡を立てた。この泡が、何よりのごちそうとされた。
アステカの飲み物は、今のチョコレートのように甘くはなく、苦く、香辛料のきいた、冷たい飲み物であった。
2-3. カカオ豆はお金だった
アステカでは、カカオ豆はお金としても使われた。
1520年、スペインの征服者コルテスは、国王にあてた手紙の中で、カカオが「国中でお金の代わりに使われ」、市場では何でも買うことができる、と書いている。1545年のメキシコの文書には、「ふっくらした豆200粒、または縮んだ豆230粒」が、スペインのお金の単位1トミンにあたると記されている。豆の品質によって、値打ちが違ったのである。
お金として使われたため、偽物のカカオ豆まで出回った。ろうや、アマランサス(穀物の一種)の練り物で形をまねたもの、アボカドの種を削ったものなどがあったという。
アステカの王たちは、征服した南の地方から、大量のカカオ豆を貢ぎ物として取り立てていた。カカオは、アステカの経済と権力を支える、大切な富でもあった。
2-4. 「チョコレート」という言葉
「チョコレート」という言葉の由来は、実ははっきりわかっていない。よく知られている「ナワトル語(アステカの言葉)のショコラトル(苦い水)から」という説は、言葉の変化の説明が難しく、研究者の間では疑問視されている。最近では、カカオを泡立てるための棒を意味する言葉から来たという説が有力だが、これも確定していない。
記録の上では、スペイン語の「チョコラテ」が1579年に、英語の「チョコレート」が1604年に初めて現れる。
3. カカオ、ヨーロッパへ
3-1. コロンブスとコルテス
ヨーロッパ人で初めてカカオ豆を見たのは、コロンブスだとされる。1502年、第4回の航海の途中、中米の沖でマヤの人々のカヌーに出会い、積み荷の中にカカオ豆を見つけた。しかし、コロンブスはその使い道を知らなかった。
1519年、スペインのエルナン・コルテスは、メキシコに上陸し、アステカの都テノチティトランで、王モクテスマ2世に会った。コルテスに同行したスペイン人の兵士ベルナル・ディアスは、のちに書いた回想録の中で、王のもとへ「泡立てたカカオを入れた大きな壺が50以上」運ばれてきたと記している。ただし、この回想録は、できごとから約50年後に書かれたものである。
その後、コルテスたちはアステカを征服し、メキシコはスペインの植民地となった。
3-2. スペイン宮廷のチョコレート
「コルテスが1528年にカカオをスペインに持ち帰った」という話がよく語られるが、それを裏付ける記録はない。
記録の上で確かな最初の例は、1544年である。メキシコから来たドミニコ会の修道士たちが、中米のケクチ・マヤの貴族たちを連れて、スペインのフェリペ王子(のちの国王フェリペ2世)に会った。そのときの贈り物の中に、泡立てたカカオの飲み物があった。カカオを積んだ船が正式に記録されるのは、1585年である。
カカオの飲み物に砂糖を加え、甘くして飲むようになったのは、植民地となったメキシコでのことであった。スペインでは、カカオに砂糖やシナモン、バニラを加え、温めて飲むチョコレートが、宮廷や貴族の間で好まれるようになった。木の泡立て棒(モリニーリョ)で泡を立てて飲む習慣も受け継がれた。
3-3. フランスへ
フランスへのチョコレートの伝来については、「1615年、スペインの王女アンヌ・ドートリッシュがフランス王ルイ13世と結婚したとき持ちこんだ」という話や、「1660年、スペインの王女マリア・テレサがルイ14世と結婚して広めた」という話が有名である。しかし、どちらも、その時代の記録による裏付けはない。
記録で確かめられるのは、次のようなことである。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1609年以降 | フランス南西部、スペインに近いバイヨンヌの対岸の地区で、チョコレートの職人たちが活動を始める。スペインやポルトガルから移り住んだユダヤ系の人々が、その技術を伝えたとされる |
| 1659年 | 宰相マザランが、ダヴィッド・シャイユーという人物に、パリでチョコレートを独占して売る権利を29年間与える |
| 1670年代 | チョコレートは、パリの貴族の女性たちの間で流行していた |
フランスでも、チョコレートは初め、体によい薬として受け入れられた。
3-4. イギリスのチョコレート・ハウス
イギリスでは、17世紀の半ばに、コーヒーとともにチョコレートが入ってきた。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1657年 | ロンドンで、フランス人が開いた店が、新聞に「西インドのすばらしい飲み物、チョコレート」の広告を出す |
| 1661年 | 役人サミュエル・ピープスが、国王の戴冠式の翌朝、前の夜の深酒で荒れた胃をなだめるためにチョコレートを飲んだと、日記に書く |
| 1693年 | ロンドンのセント・ジェームズ通りに「ホワイツ」が開店。チョコレートを飲みながら、大金をかけた賭けごとをする店として知られた |
チョコレート・ハウスやコーヒー・ハウスは、人々が集まり、政治や商売、うわさ話に花を咲かせる社交の場となった。
この時代のチョコレートは、まだ「飲み物」であった。今のような「食べる」固形のチョコレートが生まれるのは、19世紀のことである(第8章参照)。
4. 新大陸の砂糖
4-1. サトウキビ、大西洋を渡る
第1章で学んだように、砂糖はインドからペルシャ、アラブを経て地中海に伝わった。15世紀になると、ポルトガルやスペインは、大西洋の島々でサトウキビを育て始めた。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1425年 | ポルトガルのエンリケ航海王子が、マデイラ島にサトウキビを持ちこむ。15世紀の終わりには、マデイラ島は大きな砂糖の産地になった |
| 1493年 | コロンブスが、第2回の航海で、サトウキビをカリブ海のイスパニョーラ島に運ぶ |
| 1501年 | イスパニョーラ島で、初めてサトウキビが収穫される |
| 1520年代 | キューバやジャマイカにも砂糖をつくる工場ができる |
| 16世紀 | ポルトガルの植民地ブラジルで、砂糖の生産が大きく広がる |
| 1625年以降 | オランダ人が、ブラジルからカリブ海の島々(バルバドスなど)へ、砂糖づくりの方法を広める |
カリブ海の島々やブラジルの暑く雨の多い気候は、サトウキビの栽培にぴったりであった。広大な土地に、サトウキビだけを大規模に植えるプランテーション(大農園)がつくられていった。
4-2. 砂糖と奴隷貿易
サトウキビの栽培と砂糖づくりは、たいへんな重労働であった。かたい茎を刈り取り、すぐに汁をしぼり、大きな釜で何時間も煮つめなければならない。タバコや綿の栽培に比べても、はるかに多くの働き手と資金が必要であった。
ヨーロッパの国々は、その働き手として、アフリカから大勢の人々を奴隷として連れてきた。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 期間 | 1501〜1867年 |
| アフリカから船に乗せられた人々 | 約1,250万人 |
| アメリカ大陸に上陸した人々 | 約1,070万人 |
| 出典 | 大西洋奴隷貿易のデータベース(Slave Voyages)の推計 |
船に乗せられた人々のうち、およそ180万人が、ひどい環境の船の中で命を落としたことになる。プランテーションに着いた人々も、自由をうばわれ、過酷な労働を強いられた。奴隷にされた人々の多くが、砂糖のプランテーションで働かされた。
ヨーロッパから武器や布などをアフリカへ運び、アフリカから奴隷をアメリカ大陸へ運び、アメリカ大陸から砂糖などをヨーロッパへ運ぶ。この大西洋をめぐる貿易は、「三角貿易」とよばれる。
4-3. 砂糖が人々のものになる
新大陸での大量生産によって、砂糖の値段はしだいに下がっていった。17世紀から18世紀にかけて、コーヒーや紅茶、チョコレートといった新しい飲み物が広まると、それに入れる砂糖の消費も大きく増えた。
イギリスの1人あたりの1年間の砂糖の消費量は、次のように増えた(人類学者ミンツ『甘さと権力』による)。
| 年 | 1人あたりの年間消費量 |
|---|---|
| 1704年 | 約4ポンド(約1.8kg) |
| 1800年 | 約18ポンド(約8kg) |
| 1900年 | 約90ポンド(約41kg) |
約200年で、20倍以上に増えたことになる。紅茶に砂糖を入れて飲む習慣は、イギリスの労働者の暮らしにも広がった。18世紀の終わりに紅茶の税が下がり、19世紀に砂糖の税が廃止されると、砂糖はさらに安くなり、すべての人々のものとなった。
かつて王侯貴族の宝物であった砂糖は、こうして、ふつうの人々の毎日の食べ物になった。しかし、その大衆化は、奴隷とされた人々の犠牲の上に成り立っていたのである。19世紀になると、奴隷貿易と奴隷制度は、各国でしだいに廃止されていった。
砂糖の歴史は、19世紀に、もう一つの大きな転機を迎える。サトウキビとは別の植物、テンサイ(砂糖大根)から砂糖をつくる方法が広まったのである。これについては、第7章で学ぶ。
5. カカオと砂糖の年表
| 年 | カカオ | 砂糖 |
|---|---|---|
| 約5400年前 | エクアドルでカカオの利用(マヨ・チンチペ文化) | |
| 紀元前1900〜1100年 | メソアメリカでカカオの利用 | |
| 紀元前600年ごろ | マヤの人々がカカオを飲む | |
| 1425年 | マデイラ島にサトウキビ | |
| 1493年 | コロンブスがイスパニョーラ島にサトウキビ | |
| 1502年 | コロンブスがカカオ豆を見る | |
| 1519年 | コルテスがモクテスマ2世に会う | |
| 1520年 | コルテスの手紙「カカオはお金の代わり」 | |
| 1544年 | ケクチ・マヤの貴族がスペインの王子にカカオを献上 | |
| 16世紀 | ブラジルで砂糖の生産が広がる。奴隷貿易が拡大 | |
| 1657年 | ロンドンでチョコレートの広告 | |
| 1659年 | パリでシャイユーにチョコレートの独占販売権 | |
| 1704〜1900年 | イギリスの砂糖の消費が20倍以上に | |
| 1753年 | リンネが「テオブロマ(神々の食べもの)」と命名 |
伝説と史実
よく語られるお話と、確かな記録からわかることを比べてみましょう。カードをタップすると、史実がめくれます。
🔮 よく語られる話「チョコレートの語源は、アステカの言葉『ショコラトル(苦い水)』である」
🔮 よく語られる話「コルテスが1528年にカカオをスペインに持ち帰った」
🔮 よく語られる話「アンヌ・ドートリッシュが1615年の結婚でフランスにチョコレートを伝えた」
🔮 よく語られる話「マリア・テレサが1660年の結婚でフランスにチョコレートを広めた」
🔮 よく語られる話「チョコレートは最初から甘いお菓子だった」
製菓とのつながり
チョコレートの原点は「飲み物」
今の製菓でチョコレートは欠かせない素材だが、その歴史のほとんどの期間、チョコレートは飲み物であった。ショコラ・ショー(ホットチョコレート)やココアは、チョコレートの原点の姿を今に伝えている。泡立てて飲むアステカの習慣は、ミルクフォームをのせたホットチョコレートにも通じている。
カカオの風味と産地
カカオは、育った土地や品種、発酵のさせ方によって、香りや味わいが大きく変わる。南米、中米、アフリカ、アジアなど、産地ごとに異なるカカオの個性を生かしたチョコレートが、今は数多くつくられている。5000年以上前に南米で始まったカカオの歴史は、世界中の産地へと広がっている。
甘さの歴史を知る
今、私たちは砂糖やチョコレートを当たり前に使っている。しかし、その歴史には、奴隷とされた人々の苦しみがあった。現在も、カカオの産地では、子どもの労働や、生産者の貧しさが問題になっている。生産者に公正な価格を支払うフェアトレードのカカオや砂糖を選ぶことは、甘さの歴史に向き合う一つの方法である。お菓子をつくる人として、素材がどこから、どのように届いているのかに目を向けたい。
まとめ
カカオの学名「テオブロマ」は「神々の食べもの」の意味である(リンネ、1753年)。最古のカカオの利用は、南米エクアドルの約5400年前のマヨ・チンチペ文化で確認されている。メソアメリカでは紀元前1900年ごろからカカオが利用され、マヤの人々は紀元前600年ごろにはカカオを飲んでいた。アステカでは、カカオは苦く香辛料のきいた泡立てた飲み物で、お金や貢ぎ物としても使われた。「チョコレート」の語源ははっきりしていない。
1502年にコロンブスがカカオ豆を見、1519年にコルテスがアステカの王モクテスマ2世に会った。スペイン宮廷へのカカオの確かな最初の記録は1544年、マヤの貴族の献上である。メキシコとスペインで砂糖、シナモン、バニラを加えた温かいチョコレートが生まれた。フランスでは1659年にシャイユーが独占販売権を得、イギリスでは1657年にチョコレートの広告が出て、チョコレート・ハウスが社交の場となった。この時代のチョコレートは「飲み物」であった。
砂糖は、1425年にマデイラ島、1493年にコロンブスによってカリブ海へ運ばれ、カリブ海やブラジルのプランテーションで大量につくられた。その労働を担わされたのは、アフリカから連れてこられた約1,250万人の奴隷とされた人々であった(三角貿易)。砂糖は安くなり、イギリスの1人あたりの消費は1704年から1900年までに20倍以上に増えた。
次章では、ルネサンスのイタリアから、ルイ14世のヴェルサイユへと続く、ヨーロッパの宮廷の菓子の物語を訪ねる。
※ 本ページは『sweets note. 図書館』のお菓子の歴史 第4章です。製菓衛生師養成課程の科目「社会」のうち、菓子の歴史と文化にあたる内容を扱っています。

